第1話 始まり

文字数 2,813文字


ヤバイ。頭の中でガンガン警鐘が鳴っている。

反射的に見たデジタル腕時計は十九時を過ぎているのに、少し開いたカーテンの外がまだ明るい。そうだ、今日は夏至だった。一年で一番長い日だ。そんなことは俺とは何の関係もないはずなのに、何故だか今は物凄く気に障る。

俺が何をしたっていうんだ。どんな悪いことをしたっていうんだ、神様! そりゃ俺だって微罪に当たる行為はやってるさ。駐車違反とか、立ちシ○ンとか……、だけど、そんなことは誰でもやってるだろ!

今まで寝ていたらしいベッドから飛び起きた俺は、乱れたシーツの上を凝視した。誰だよ、この女。染めてない真っ黒な髪に白い肌。真っ赤なルージュだけが血の気のない顔にアクセントを添えている。うつくしい女だ。ホワイトシルクのスリップドレスの胸に、顔と同じように真っ赤な血がワンポイントになっているのは偶然か?

そんなワケないのは分かってる。だけどそんなことでも考えてなければ気が狂ってしまいそうだった。何で俺は見た事も無い女の死体と一緒に寝てたんだ? それにここは何処だよ?

改めて見回してみると、どうやらホテルの一室らしかった。それも安っぽいラブホじゃない。やたら高級そうな部屋だ。俺には一生縁がないと思っていたスイートルームってヤツか? 開いたままのドアの向こうにもうひとつ部屋があるのが見える。どこもかしこも全然見覚えが無い。

だけど、そんなことはどうでもいい。俺はどうすりゃいいんだ?

俺はハッと自分の身体を見下ろした。血はついてない。手にも。ベッドシーツに広がる血の量からして、もし俺が女を刺したんだとしたら、返り血を浴びていないのは変だ。俺は殺してない。血染めのドレスの胸に刺さったナイフが、夏至の長日の明かりで鈍く光っている。

逃げよう! 俺は転がるようにその部屋を出た。廊下は広く、人影は見えなかった。

内側からだけ開くらしいドアを空けて、俺は非常階段を必死で駆け降りた。何階下りたのか覚えていない。地下駐車場からホテルの外へ出てようやく大きく息をついた俺は、ふと胸ポケットに違和感を感じた。

何だ、これは?

ポケットに入っていたのは、ピアスだった。マンボウの形をしている。こんな時でなければ笑ってしまうような、ひょうきんな形だ。

さしもの長日も急速に明るさを失い、ネオンが息を吹き返す中、ピアスのマンボウのおちょぼ口が、俺を笑っているように見えた……。









今日は雨だ。

頭がどんよりと重い。俺はカーテンの端をめくって外をのぞいてみた。赤いチューリップとにゃんこ柄の布の向こう、乳白色の空から、無数の銀色の矢が降ってくるように見える。窓ガラスを通しても聞こえる雨音。俺はぼんやりとそれを眺めていた。

昨日はどうやって部屋まで帰ってきたのか覚えていない。風呂にも入らずに、着の身着のままベッドにもぐり込んでひたすら眠った。何も考えたくなかった。

あれは夢だと思いたかったが、サイドボードがわりのカラーボックスの上を見やると、例のマンボウ・ピアスが妙な存在感を醸しだしている。

溜息をつき、俺は寝返りを打った。ぎしぎしとベッドが軋む。粗大ゴミ置き場から拾ってきたものだ、贅沢は言えない。俺はキテ○ちゃんのタオルケットを頭から被り直した。カーテンといいタオルケットといい、俺の趣味だと思われたくないが、別れた妻が連れて行った娘がくれたものなんだ。使わなきゃ父親じゃないだろ。お年玉を溜めたお金の中からパパのために、と選んでくれた。ちなみに、クマさんのぬいぐるみもある。

パパが寂しくないようにって。泣けるだろ?

はあ。俺は本当に泣きたくなってきた。俺はののかを犯罪者の娘にしてしまったんだろうか? だが、殺した覚えはないし、そもそも、死んでいたあの女の顔にも全く見覚えがない──。だけどそろそろこの部屋のボロいドアがドンドンと叩かれる頃だろう。あの時は混乱してつい逃げてしまったが、これも朝寝坊のパパのためにとののかがくれたトト○の目覚まし時計を見れば、あれから半日以上経っている。警察が俺のところに来ても不思議ではない。

──どうでもいいけど、ののかの趣味も微妙に一貫性が無いな。誰に似たんだろう。

ふっと現実逃避しかかった俺の耳に、逃れられない現実の音が聞こえた。誰かがドアを叩いてる。ついに警察が来たんだな。逃げようか、と一瞬思う。だが、俺は本当に殺してないのだ。俺は殺人犯じゃない。ののかのためにも、ここは逃げずに警察にありのままを話すのだ。俺は無実なのだから。

俺はのろのろとベッドから降りて、いびつな形の狭い寝室を出てすぐ隣の事務所に入った。俺が何でも屋を開いているのは、全体的に三角形をした小さなボロビルだ。バブルの時代に投機目的で建てられたものだが、すぐに泡がはじけてしまい、外装もできないまま放置されていた。それをタダ同然で借りているのだ。

覚悟を決め、ドンドンともどかしそうに叩かれるドアを俺は一気に開けた。そして、息を呑んだ。

「もー、いるんなら早く出てくださいよ!」

そこに立っていたのは、覚悟していた警察ではなかった。シンジ。この辺りをうろついている若いチンピラもどきだ。髪を真っ赤に染めて、耳にも指にもじゃらじゃらと銀のアクセをいっぱいつけている。

「……どうしたんだシンジ。お前、夜行性だろう?」

一気に力の抜けた俺は、ボケたことを呟いていた。

「うっさいっすねぇ! 俺だってちゃんとお日様を見ることがあるんですよ!」

「今日は雨だぜ?」

「そんな可愛くないこと言ってると、仕事紹介してあげませんよ?」

「俺はどうせオヤジだよ。可愛くなくて結構!」

シンジは芝居がかかった仕種で天を仰いでみせた。

「ん、もうっ! 朝からいい気分だったのに、台無しだよ。もう俺帰る!」

くるりと背中を向ける。俺は慌ててその肩に手を置いてこちらに向けた。本当に仕事があるなら紹介してもらいたい。俺は慰謝料を払わなくちゃならないのだ。払わないと、ののかに会えない。それが元妻との離婚時の約束なのだ。

「まーまー、シンちゃん、そう言わずに。あ、そういえばいいペンダントしてるじゃないの。買ったの?」

「ふふ、気づきました?」

シンジの鼻がひくひくした。何かよほどうれしいことでもあったらしい。

「カノジョがくれたんすよ。バースデー・プレゼント! 仕事帰りに俺んちに寄ってくれてね~」

ムフフ、と聞こえてきそうなニヤけた顔でシンジは得意そうに言う。

「俺がアクセをここのブランドで揃えてるの、ちゃんと見ててくれてさぁ。愛だよね、愛!」

シンジの日焼けした胸元で鈍く光っているのは、五角形の星のような形のペンダントトップだ。なんだろう? その銀色の光が、俺の頭のどこかをチカリと弾いた。
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