第270話 猫たちは太公望?

文字数 1,461文字

・2月16日 石鹸シャンプーにはクエン酸リンス

ぱっかーん

硝子のコップが割れた。
濡れた、風呂の床の上で。

呆然と割れたコップを見つめる俺、ただいま入浴中。

コップの中には、リンス用のクエン酸が入っていた。石鹸シャンプー(身体を洗う石鹸を髪に擦り付けて泡立てているだけだけど)でアルカリに傾いた髪を中和するのに必要なんだ。別に酢でもいいんだけど、俺はクエン酸を使ってる。酢は臭いが辛いからな。

いつもはクエン酸粉末をプラスチックコップに入れて風呂に入るんだけど……何で今日に限って硝子のコップに入れちゃったかなぁ……。

きらきらと輝く硝子の破片。

俺、入浴中なんだから当然素足なんだけど──、どうしたらいいんだ、こういう場合。足の裏を怪我するのは困る。ハイヒールを脱ぎ捨てて街を逃げ回った時、身に染みたよ。穿いてたストッキングなんて、紙装甲より脆かった。

さて。

未だ再起動出来ず、湯船の中で硬直してるんだけど……。
どうする? どうするよ、俺。





・2月22日 釣れますか?


何だろう、あれ。
ブロック塀の透かしから垂れ下がってる、あれ。

透かしはちょうど俺の肩くらいの高さで、そこから鮮やかなオレンジ色の茶トラの棒が、てれーんと垂れてる。

塀の内側には盆栽棚が設えられているのだが、野良猫が勝手に来て寝そべってたりするのを俺は知ってる。夏場、ここんちの水遣りを頼まれることがあるからな。

てれんと伸びた猫の尻尾が、たまにぴくりと動く。でも、引っ込める気配が無い。そこで、思わず俺は呟いていた。

「……釣れますか?」






・2月27日 太公望


昨日の雨は酷かったなぁ、とか思いながら、今日も朝から雲の向こうに隠れてるお日様の輪郭を目で追いながら歩いてたら、角の家の門柱に後ろ向きに座った猫が尻尾を垂らしてた。

見覚えのある、オレンジみたいなきれいな茶トラ。二月二十二日の猫の日に、ブロック塀の透かしの穴からこれ見よがしに垂れてた、あの尻尾だ。

てれーん。時折、ゆらゆら。

なんで見るたび尻尾を垂らしてるんだろ。やっぱり釣り? 猫好きなら釣れるかも? などとバカなことをぼーっと考えながら見てたら、向こうからハイペースでジョギングしてきた大学生ふうの若い兄ちゃんが、通り過ぎざま猫に声を掛けていった。

「よ、太公望!」

あまりにもぴったりな呼び名に、思わず俺は吹き出した。





・2月28日 釣られた俺

二月最後の日、まだまだ肌寒いけど上天気。

こんな日は、お弁当持って娘のののかと公園ピクニックでもしたいな……と思いながら、頼まれ物の荷物で重たい自転車を押して歩いてたら、またあの太公望猫がいた。

塀の上から、これ見よがしに茶トラ柄の釣り糸を垂らしてる。今日は何故か、黒くてツヤツヤしたのも一緒に垂れてた。

あの大きさ、尻尾の長さ。あれは羅照さんちの黒猫……。太公望猫の隣に座って何やってるんだろ。釣り仲間になったんだろうか。

白い塀に、てれんと垂れたオレンジと黒の釣り糸ならぬ釣り尻尾。シュールな絵面につい立ち止まって凝視してたら、いきなり塀の向こうから新たな猫が現れ、二匹の隣に座ったかと思うと、徐に白黒ぶち柄の尻尾を垂らした。

塀に垂れる、三本の尻尾。

なんなんだろう、これ。釣りが流行ってるのかな、この辺りの猫に。

「……釣れますか?」

ぽろりと零れたしょーもない問いに、黒猫がにゃん、と鳴いて尻尾を揺らした。肩越しに振り返ってこちらを見た金色の目が、にやり、と笑ってるように見えた。

……
……

思わず携帯カメラで釣り尻尾を激写した俺は、もふもふした釣り師たちにしっかり釣られてしまったようだ。
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