第14話 パキラのように元気でいて

文字数 4,201文字

寂しいもの飲んでるって何だよ。俺はムッとした。慰謝料と、ののかの養育費をお前の姉に支払うために、倹約してるんだっつーの。

「水出しコーヒーの方が良かったな。気の利かないヤツ」

憎まれ口を叩いて鍵を開け、中に入る。入れとも言わないのに智晴も入ってくる。

「素直じゃないですね。水出しコーヒーはいいけど、専用のコーヒーメーカーはあるんですか? 無いでしょう? 緑茶でガマンしなさい」

「……」

確かにそんな上等なものはない。俺が黙っていると、智晴は勝手に冷蔵庫からブリタ(浄水容器)を出し、台所から持ってきた二つのコップに水出し緑茶を入れて水を注いだ。

「ほら。暑かったんでしょう」

「……サンキュ」

俺は一応礼を言った。薄緑いろのお茶を飲む。悔しいが、美味い。智晴もひと口飲んで、何やら一人で頷いている。

「値段のわりに、味は悪くないですね」

「飲めりゃいいんだよ。俺は贅沢言わない。だけど、確かに美味いよ」

しばらく二人無言でお茶を啜っていた。ジンジャーコーディアルは凍えた神経を温めてくれたが、冷たい水出し緑茶は身体にこもった熱気を追い払ってくれる。

「なあ、智晴」

俺は黙ってコップをゆらせている元義弟を見た。こいつがやると、キテ○ちゃんの絵のついたコップも、バカラのグラスに見える。

「お前が会ったアオイっていう女のことなんだが」

「昼間もそれを気にしてましたね」

智晴が横目で流し見てくるのに、俺は思い切って訊ねた。

「そのアオイは、ちゃんと女だったか?」

一瞬、物凄く妙なものを見るような目で俺を見たが、智晴は真面目に答えてくれた。

「……彼女が女ではないと疑うような要素は、別になかったです」

「アオイは、首に何か巻いてなかったか? スカーフとか」

「スカーフ? そんなものはしてませんでした。きれいなチョーカーをつけてましたが」

「チョーカー? ということは……」

俺は考え込んだ。

「──あなたの考えてることが何となくわかりましたよ」

俺の顔をじっと見つめていた智晴は、ふむ、と頷いた。

「そのチョーカーは、喉仏があるとすればちょうど隠れるくらいの幅はありました。どうです、これがあなたの知りたかったことでしょう?」

何で分かったんだ? 俺はうっと詰まってしまった。

そ、そうだよな。話の流れからいったらそうなるよな。俺、昼もしつこくアオイは女だったのかと気にしていたし。

「そうですね、彼女のピアスに気づいたのも、あまりにもそのチョーカーの雰囲気と合わなかったからです。優雅なプリンセスデザインのチョーカーに、ひょうきんなマンボウ。あのセンスには僕も頷けなかったな」

しかも、赤い石の方のマンボウだったし。と智晴は続ける。まだ水色のほうが色的には合っていたのにと。

「考えてみれば、彼女の声はハスキーだった。女性にすればかなり低い方でしたよ。だからといって男の声にも聞こえませんでしたがね」

俺は<サンフィッシュ>で会ったあの女の声を思い出していた。そう、男の声だとは思わなかった。かすれ気味の、セクシーな声。その声で、彼女は言ったのだ。

『太陽の魚は、お日様が好きだと思う?』

男か。女か。わからない。俺は昔見たアニメのキャラクターを思い出した。<アシュラ男爵>といったか。身体の半分が男で、半分が女。

「胸はけっこう大きかったと思うんですが、あれはたとえどんなに平たくても、何とかなるもんですからね」

智晴は続ける。確かに。俺も騙されたことがある。騙されたのは、多分男のスケベ心ってやつだろう。

「胸があるから女、無いから男、とは言えません。脱がせてみないとわからないこともありますからねぇ」

俺はぼうっと聞き流していたが、何かが引っかかり、ギギギと音がしそうなほどぎこちなく首をめぐらせた。

「と、智晴? 脱がせてみないとわからないこともって……」

恐る恐る訊ねる俺に、元義弟はハリウッド俳優のような笑みを見せた。

「聞きたいですか?」

「いや、聞きたくないから!」

俺はぶんぶんと首を振った。鞭打ちになりそうだ。いや、近年分かったところによると、鞭打ちからくる脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)というやつだ。

「お、お前が誰と何をしようと、俺には関係ないから!」

「冷たいな、義兄さんは」

智晴はくすくす笑う。どうやら俺はからかわれたらしい。だけど、この妙に色気のある美丈夫なら、そういうこともあるかも、って思うだろ、誰でも。

思わせぶりなヤツめ。俺はふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「で?」

「で、とは?」

智晴はさっきとは打って変わった真剣な表情で俺を見ていた。

「一体何があたんです? アオイとこのマンボウのピアスには、どんな関係があるっていうんですか?」

くそ、避けていた話題を!
俺は智晴を睨みつけた。

「そんな顔をしても怖くもなんともありませんよ。僕はね、心配なんです」

「大きなお世話だ!」

「ふーん、そんなこと言うんだ」

智晴はぎらりと目を光らせた。

「姉さんだって。あなたに危険な目に遭って欲しいなんて思ってない、いくら別れた相手だとしても。ののかちゃんの父親でしょう、あなたは。自分勝手に危ないことに首を突っ込む権利なんて、ないんですよ」

俺は黙り込んだ。何も言い返せない。

「自分一人だけで生きてるような顔をして。それがどれだけ周りをイライラさせるか──心配させるか、わからないんですか?」

珍しく声を荒らげる智晴の瞳は、刻々と色を変える万華鏡のようだ。こいつって瞳の色がちょっと薄緑がかってる? などと俺はつい関係のないことを考えてしまった。

「聞いてるんですか、義兄さん?」

「ごめん……」

俺はうなだれて自分の靴を見つめた。サラリーマン時代から履いている靴だ。かなり草臥れている。俺自身も同じくらい草臥れてるんだろうか。

リストラされてから、何もいいことがなかった。会社での経歴なんて何の役にも立たない。俺は妻と娘を養うために無理をして……。そうだ。妻にも言えなかった。リストラされたなんて言えなかったんだ。

毎朝、会社時代と同じ時間に家を出て、ハローワークに行って仕事を探す。同じ年代の失業者があふれ返っていた。自分独りじゃないから、妻と娘がいるから、安すぎる給料じゃ妥協できなくて必死で仕事を探した。

何度も面接に行った。それでもダメだった。自分の存在が全て否定されるような気がして、心が乾いていった……。

俺は部屋の隅に置いてある観葉植物を見つめた。あれは、別れた妻が餞別だといってくれたものだ。俺の乾いた心を、彼女は分かってくれていたんだろうか。

──これなら、あなたみたいな人でも枯らすのは難しいはずよ

元妻の物憂げな、だが何かを振り切ったような表情を思い出した。

──パキラっていうの。日の当たる場所に置いて、たまに水をあげて。それで枯れないわ、この木は

だから俺は、このボロビルに引っ越す時にもこの鉢植えを持ってきた。ブラインドの壊れた、南側の窓から入る日差しは強い。思い出したように水をやってはいるものの、夏も冬もそこに置きっぱなしにしているのに、春にはちゃんと新芽を出し、今は力強く濃い緑の葉を広げている。

枯らしたら指をさして笑ってやるわよ、と彼女は言った。

そうか。あれは「どんなことがあっても、元気でいてね」という彼女なりのエールだったんだ。いや、彼女のことだから、元気でいてね、というより、元気でいなさいよ! なのかもしれない。

元気でいないと許さないわ、あなたはののかの父親なんだから。──夜鏡の窓に映る緑の葉が、そう言ったような気がした。

「……ごめん」

俺は目の前にいる智晴と、智晴に重なる彼女の面影に詫びた。それから、心の中で付け加える。──ごめん。それから、ありがとう。

「分かればいいんですよ」

ちょっと照れくさそうに智晴はお茶を飲み干した。普段滅多に素の感情を見せないこいつの頬がかすかに赤くなっているように見えるのは、きっと気のせいだろう。

俺もコップの中身を飲み干し、一年で一番長い日に俺が出会った出来事を語りだした。

高級ホテルの豪華なスイートルームで、見知らぬ女の死体の隣で目覚めたこと。
逃げ出す途中で気づいた、いつの間にかポケットに入っていたマンボウのピアス。

翌日、知り合いのチンピラ、シンジが人探しの話を持ってきたこと。
人探しの依頼主と会ったこと。息子の居所を探してくれと見せられた写真が、死んだ女とそっくりだったこと。

「で、その息子の双子の兄も五年前から行方不明だっていうんだよ」

俺は情けなく息を吐いた。

「父親も何だか変でさ。笑い仮面なんだ。笑顔がはりついてやんの」

「そのホテルで目が覚めるまでのことを、何も覚えてないんですか? まったく? これっぽっちも?」

智晴の問いに、俺はうなだれたまま答えた。

「覚えてない。まるで催眠術にでもかかったみたいだよ」

「ヒュプノシスですか・・・」

「なんだ、それ?」

「英語で、催眠とか催眠術という意味ですよ」

「変なの。なんでそんなこと知ってるんだ?」

「つい先日、姉さんに旅行土産をね。ヨーロッパ本店で買った香水の名前が<ヒュプノシス>。これでもつけていい男を捕まえろよ、って言ったら殴られました。まだ日本では発売されてない香を選んであげたのに」

俺はぷっと笑った。

「どうせ、こんなもの使わなくても充分モテるわよ! って言われたんだろ」

「さすが、元夫婦。よく分かりますね」

智晴は苦笑いした。

「おまけに、先行販売ってやつで国内でも少し前から扱ってるところがあったらしくて。余計バカにされましたよ。そう言う本人はわざわざ買いに行ったらしいんです。本格的に販売されるのは八月だからその前にって。新し物好きなんだから」

「なんだ、やる気満々じゃないか!」

俺はまた吹き出した。元妻は、俺と別れてから慰謝料と実家の援助でちょっとした事業を始め、それが成功している。今や女社長だ。そういえば、この間会った時も高そうな時計をしていたっけ。
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