第256話 四つ辻の赤い薔薇 その後 3
文字数 2,110文字
俺が言葉に詰まっている間も、話は続く。
「その人は、会社に遅れるからと慌てて行ってしまったので、礼をする暇もなかったと大藪さんは残念がっていましたが……それを聞いて、母親も思い出したらしいんですよ、占い師の言ってた四つ辻の厄落としのこと。ただのお話として忘れていたそうですが、そんなこと、まさか本当にやる人がいるとは思わなかったって言ってましたね」
「──挫いた足、大丈夫だったんですか?」
そこが気になった。
「すぐ医者に連れて行ったみたいだしね。子供だから治りも早くて良かったって大藪さんは言ってましたよ。それは幸いだったんだが……近所の、同じ小学校に通う子供を持つ親に聞いてみたら、なんだかみんなちょくちょく怪我してるっていうんですよ、道で小銭を拾った子が。だいたいみんな交番に届けてるんですが、それでも転んだりぶつけたり……。子供なんだから小さい怪我は当たり前みたいなものだけど、いい気持ちはしないでしょう? だから、道でお金が落ちてるのを見つけても、拾っちゃいけないとみんな言い聞かせるようになったんです」
「まあ何というか、縁起が悪い気がしますね……」
「でしょう? でね、そんな話が出てから、そういえばお金をわざと落としてる男を見た、自分も見た、っていう人が出てきて。どうやらそれがあのマンションの住人らしい、となったところで、その本人が変な死に方をしたものだから──」
何か報いを受けたんじゃないかって、この辺りでは専らの噂ですよ、と古町さんは言う。因果関係なんか証明出来ないし、そもそも全く関係無いのかもしれませんけどね、と難しい顔だ。
「誰もお金を拾わなくなってからのことなんですけど……誰かが拾えばまた落とす、というスタイルだったようだから、そこの十字路に小銭がじゃりじゃり、ってことはなかったんですけどね」
光り物好きなカラスが啄ばんで行ったりもしたらしい。
「今度は、不特定の十字路に移って、お金じゃないものを落とす、というか捨てていくようになったようなんです」
「お金じゃないもの?」
「ぬいぐるみとか、小さな陶器人形とか、綺麗な花とか……」
「……」
「……」
二人、無言で目を見合わせた。どちらも、急死を遂げたという男の身の回りにあったもののことを思い描いてる。
ふっと息を吐いて、古町さんは続けた。
「──陶器人形もね、リスとかウサギとか、そういう可愛いものなんですよ。ぬいぐるみも同じ。欲しいと思う人もいるだろうけど、そうじゃなくて、そのまま道に放っておくのが可哀想、と感じるようなものを捨てていくようになったんです。花もね、道のど真ん中に落ちてるのを見たら、ああ、車に轢かれたら可哀想だなくらい、誰だって思うでしょう?」
「……」
うん、俺もそう思って拾ったんだよな、あの赤い薔薇の花。車のタイヤに押し潰されて、無残に散らせるに忍びないと──。
「人の欲じゃなくて、善性、っていうのかな、優しい気持ちに付け込もうってところが、ものすごく性質が悪いと思うんです」
「……俺もそう思います」
同意すると古町さんは頷いて、また違う話をするように語り出した。
「あのマンションの斜向かいに山田さんちのお宅があるでしょう?」
「ええ」
山田さんちは庭付きの二階建て。前に樋掃除を頼まれたことがある。
「あそこの二階の窓からだと、ちょうどあの男の住んでいた角部屋を斜めから見上げるようになるらしいんですが……、見たっていうんですよ」
「……何を?」
「ベランダに立って、双眼鏡を覗く人影」
俺はなんと答えていいのか分からなかった。
「……こんな住宅の多いところで双眼鏡は、色々誤解されやすいですね」
そんなふうに続けるしか無い。
「まあね。それがだいたい土曜日か日曜日の昼間だから、勤め人が休みの日の気晴らしに外の景色でも眺めてるんだろう、と山田さんはさして気に留めてなかったらしいんですけど……、後から気づいたんだそうですよ、そこの住人が双眼鏡を覗き始めたのが、あちこちの十字路に妙に小奇麗な小物が捨てられるようになった頃と、同時期だって」
「それって……」
言いかけた俺に、古町さんはゆっくりと頷いてみせた。
「十字路に何かを捨てて、誰かがそれを拾うのを双眼鏡で見てたんじゃないかと、私は考えています。山田さんも同じ考えです」
「どうしてそんな……」
意味が分からない。そんなことをして何になるんだろう?
「思うに、面白半分じゃないですか? 落とし穴を掘って、誰かがそれに引っ掛かるのをわくわくしながら隠れて見ているような」
嫌なものでも飲み込んだように、古町さんは顔を顰める。
「──悪趣味ですね」
「本当に。趣味としたら最悪です。どんな顔をしてそんな可愛い小物を買ってたんでしょうね。人の目に付くような、綺麗で可愛らしいもの……交番にもいくつか落し物として届いているようなんですが、落とし主が現れるはずもなく。拾わずに道の端っこに移動させる場合もあったようなんですが……実は私も一度、猫の陶器置物を十字路の真ん中から道の端に移したことがあります。分かっていても、可哀想でね……」
「その気持ち、分かります!」
勢い込んでそう言うと、古町さんは、ありがとう、と力なく笑った。
「その人は、会社に遅れるからと慌てて行ってしまったので、礼をする暇もなかったと大藪さんは残念がっていましたが……それを聞いて、母親も思い出したらしいんですよ、占い師の言ってた四つ辻の厄落としのこと。ただのお話として忘れていたそうですが、そんなこと、まさか本当にやる人がいるとは思わなかったって言ってましたね」
「──挫いた足、大丈夫だったんですか?」
そこが気になった。
「すぐ医者に連れて行ったみたいだしね。子供だから治りも早くて良かったって大藪さんは言ってましたよ。それは幸いだったんだが……近所の、同じ小学校に通う子供を持つ親に聞いてみたら、なんだかみんなちょくちょく怪我してるっていうんですよ、道で小銭を拾った子が。だいたいみんな交番に届けてるんですが、それでも転んだりぶつけたり……。子供なんだから小さい怪我は当たり前みたいなものだけど、いい気持ちはしないでしょう? だから、道でお金が落ちてるのを見つけても、拾っちゃいけないとみんな言い聞かせるようになったんです」
「まあ何というか、縁起が悪い気がしますね……」
「でしょう? でね、そんな話が出てから、そういえばお金をわざと落としてる男を見た、自分も見た、っていう人が出てきて。どうやらそれがあのマンションの住人らしい、となったところで、その本人が変な死に方をしたものだから──」
何か報いを受けたんじゃないかって、この辺りでは専らの噂ですよ、と古町さんは言う。因果関係なんか証明出来ないし、そもそも全く関係無いのかもしれませんけどね、と難しい顔だ。
「誰もお金を拾わなくなってからのことなんですけど……誰かが拾えばまた落とす、というスタイルだったようだから、そこの十字路に小銭がじゃりじゃり、ってことはなかったんですけどね」
光り物好きなカラスが啄ばんで行ったりもしたらしい。
「今度は、不特定の十字路に移って、お金じゃないものを落とす、というか捨てていくようになったようなんです」
「お金じゃないもの?」
「ぬいぐるみとか、小さな陶器人形とか、綺麗な花とか……」
「……」
「……」
二人、無言で目を見合わせた。どちらも、急死を遂げたという男の身の回りにあったもののことを思い描いてる。
ふっと息を吐いて、古町さんは続けた。
「──陶器人形もね、リスとかウサギとか、そういう可愛いものなんですよ。ぬいぐるみも同じ。欲しいと思う人もいるだろうけど、そうじゃなくて、そのまま道に放っておくのが可哀想、と感じるようなものを捨てていくようになったんです。花もね、道のど真ん中に落ちてるのを見たら、ああ、車に轢かれたら可哀想だなくらい、誰だって思うでしょう?」
「……」
うん、俺もそう思って拾ったんだよな、あの赤い薔薇の花。車のタイヤに押し潰されて、無残に散らせるに忍びないと──。
「人の欲じゃなくて、善性、っていうのかな、優しい気持ちに付け込もうってところが、ものすごく性質が悪いと思うんです」
「……俺もそう思います」
同意すると古町さんは頷いて、また違う話をするように語り出した。
「あのマンションの斜向かいに山田さんちのお宅があるでしょう?」
「ええ」
山田さんちは庭付きの二階建て。前に樋掃除を頼まれたことがある。
「あそこの二階の窓からだと、ちょうどあの男の住んでいた角部屋を斜めから見上げるようになるらしいんですが……、見たっていうんですよ」
「……何を?」
「ベランダに立って、双眼鏡を覗く人影」
俺はなんと答えていいのか分からなかった。
「……こんな住宅の多いところで双眼鏡は、色々誤解されやすいですね」
そんなふうに続けるしか無い。
「まあね。それがだいたい土曜日か日曜日の昼間だから、勤め人が休みの日の気晴らしに外の景色でも眺めてるんだろう、と山田さんはさして気に留めてなかったらしいんですけど……、後から気づいたんだそうですよ、そこの住人が双眼鏡を覗き始めたのが、あちこちの十字路に妙に小奇麗な小物が捨てられるようになった頃と、同時期だって」
「それって……」
言いかけた俺に、古町さんはゆっくりと頷いてみせた。
「十字路に何かを捨てて、誰かがそれを拾うのを双眼鏡で見てたんじゃないかと、私は考えています。山田さんも同じ考えです」
「どうしてそんな……」
意味が分からない。そんなことをして何になるんだろう?
「思うに、面白半分じゃないですか? 落とし穴を掘って、誰かがそれに引っ掛かるのをわくわくしながら隠れて見ているような」
嫌なものでも飲み込んだように、古町さんは顔を顰める。
「──悪趣味ですね」
「本当に。趣味としたら最悪です。どんな顔をしてそんな可愛い小物を買ってたんでしょうね。人の目に付くような、綺麗で可愛らしいもの……交番にもいくつか落し物として届いているようなんですが、落とし主が現れるはずもなく。拾わずに道の端っこに移動させる場合もあったようなんですが……実は私も一度、猫の陶器置物を十字路の真ん中から道の端に移したことがあります。分かっていても、可哀想でね……」
「その気持ち、分かります!」
勢い込んでそう言うと、古町さんは、ありがとう、と力なく笑った。