第267話 星月夜の天使

文字数 2,989文字

午前五時三十分。夜はまだ明ける気配もなし。
驚くほど明るい明けの明星を眺めながら、時折通り過ぎる車に注意しつつ足早に歩く。

迫るヘッドライト、闇を切り裂き去って行く、なーんて……おいおい、飛ばしてるなぁ。

真っ暗な冬の早朝は、人通りが少ないからって制限速度をオーバーしていくやつが多い。ここらへん住宅地なのに、危ないなぁ、もう。てなことを考えながら、吉井さん宅に急ぐ。グレートデンの伝さんを迎えに行くんだ。寝坊したから焦り気味。

えーっと、今日の犬散歩は一番最初が伝さんで、次はゴールデンレトリーバーのゴル子ちゃん、最後がアフガンハウンドのランボー君。いったん帰って着替えてから、都築のお爺ちゃんの通院付き添い、それから──。

ん?

道路と交差する細い道の手前で、俺は立ち止まった。黒い影がうずくまっている。朝帰りの酔っ払いか? にしても、こんなに寒いところで動けなくなってるなら凍死の危険が……。

「あの、大丈夫ですか?」

とりあえず、一声掛ける。

「いや、その……」

影は壁にすがりながら、よろよろと立ち上がった。と、咳を連発。マスクはしてるようだけど、空気冷たいもんなぁ……。

近くの街灯の明かりにすかして見てみると、酔っ払いではないらしい。ただ、眼鏡が真っ白に曇っている。

「風邪気味なんでマスクして外に出たら、眼鏡が曇って……街灯の明かりや車のヘッドライトにハローがかかって見えるんですよ……」

「ハロー?」

「ほら、(かさ)というか、薄曇りの空に上がった月のまわりに光の輪っかができるでしょ、ああいうののすごく鮮やかなやつが……街灯の明かりが虹の輪に包まれて見えるんです、リアル『星月夜』──」

ゴッホの、あの幻想的な絵の空に浮かんでる月と星……? ──俺の眼には、どうしてもただの街灯にしか見えないんだけど……。

ちょっとアブない人なのかな、なんて失礼なことを考えていたら、また苦しそうに咳をしている。

「マスクしてるとびっくりするくらい眼鏡が曇るし、かといって外すと空気が冷たくて咳が酷く……でも、眼鏡取っちゃうと暗いから足元見えないんです。我慢してここまで歩いてきたんですが、視界があまりにも幻想的すぎて……眩暈というか、ちょっと気分が悪くなってきて……」

すべての灯に虹の暈がかかって見えるさまは、狂気じみた美しさと彼は言う。俺には想像もつかないけど、なんか怖い。

「六時過ぎの電車に乗りたいのに、ここまで来て動けなくなってしまって……。せめて明るければ足元くらいわかるんですが、なにせ視力が両眼とも0.1以下で。熱はなくて咳だけなんですが……そういうの初めてなんで、マスクも慣れなくて」

俺、眼鏡したことないからわからないけど、そういえばマスクを嫌うお年寄りは眼鏡率高いな。そっか、レンズが曇るから嫌だっていう理由もあるんだな。

「じゃ、俺、駅まで送りますよ。眼鏡、外してしまったら視界のほう、大丈夫なんでしょう?」

五分だけ、待っててくださいね、そう言い置いて、答えも聞かずに吉井さんちまでひとっ走り。すぐに伝さんを連れて戻ってくる。近くでよかった。

幻想世界の眩暈に耐えていた人は、眼鏡をはずした頼りない様子で同じ場所に立っている。

「おまたせしました! ──車とかじゃなくてですみません。俺、そこの長い塀のお宅の、犬の散歩を任されてる何でも屋なんですよ。駅まで歩いたら一石二鳥ってことで。俺の右腕、そう、このリード持ってるほうの腕につかまっていてください。でっかい犬ですけど、とても温和な賢いやつなんですよ」

な、伝さん、と声を掛けると、おん! と短い返事が返ってくる。よしよし──って、おっと。聞くの忘れてた。

「犬、大丈夫ですか──?」

苦手な人ならすまん。それだったら左手持ってもらえばいいけど、両側で車に気をつけないといけないから、ちょっと歩きにくい。

「はい。大丈夫です」

犬は好きなほうですから。そう答えつつ、すみませんと恐縮しつつ俺の右手に手を添える。伝さんも友好オーラを出しているので、心配ないだろう。

「それはよかった」

明るくなるまで、まだあと一時間くらいはありますからね、と言いながらゆっくり足を踏み出すと、ちゃんとついて来ながら気弱に笑う声が返ってくる。

「普通に道を歩いていて、乗り物酔いみたいになるとは思ったこともなかったです……」

「いやあ、はは……。眩暈って、健康な人でもいきなりなることあるっていいますし。えっと、歩き出してから何ですけど、気分はどうです? 大丈夫ですか?」

「眼鏡ないと視界はぼやぼやですけど、これ(・・)は見慣れてますからね。あんな異世界の風景みたいなのじゃないから──」

また、咳。

「いや、すみません。今まであんまり咳で悩んだことなくて。ほんと、熱はないんですよ。そもそも風邪自体滅多に引かないんです。なのに昨日あたりからね。その上、今日にかぎって早く出社しないといけなくなって……」

そんなことを話しながら歩いていると、駅まではすぐだった。駅前広場は街灯だけの道よりだいぶん明るい。

「ここまで来ればもう大丈夫です。いやー、暗いと本当に足元見えないんですよ」

手を離し、うれしそうに周りを見回している。近眼の眼にはすべてがぼやっとぼやけて見えるらしいけど、そのぼんやりでも足元さえ見えれば大丈夫らしい。車も走る道路と違って、こういうところは平らで、うっかり爪先引っ掛けるような不規則なデコボコもないからだって。

「六時三分の電車でしたっけ? 余裕ですけど、階段は注意してくださいね。それじゃ」

「ありがとうございました! 助かりました。何かお礼を──」

明るいところで見るとわりと身なりのよかった男性が、コートの内側に手を突っ込んで、たぶん財布を出そうとしてるけど。

俺はにっこり笑って手を振ってみせた。

「いいですよ。どうせ散歩ついでです。伝さんはいつもより、ちょっと遠くまで歩けてうれしいみたいだし。な、伝さん」

そうだぜ! 帰りはちょい走ろうぜ、兄弟! とでも言うように、軽く一声鳴いて伝さんが機嫌よく尻尾を振る。と、同時に俺の腹がぐー……。う。朝飯抜きは堪えるな。

気まずくにへっと笑ってごまかそうとしていたら。何かを思いついたように男性もぱっと笑顔になった。

「ちょっと、ちょっとだけ待っててください、そう、ほんの五分だけ(・・・・)!」

そう言い残すと、男性はすぐそこのコンビニに飛び込んだ。強い明かりで真っ白に発光するかのような店内は、今の時間、客も少なかったようで、すぐに戻ってきたその手には、湯気のほかほか立ってる肉まんの袋。

「あなたのお蔭で、本当に助かりました。目も眩むような幻想世界で、心底途方に暮れていたんです。とても、とてもありがたかったんですよ。──伝さんもありがとう」

わざわざの御好意なので、俺もありがたく受け取った。駅舎に去って行く後ろ姿を見送りつつ、思う。

困ってる人の役に立てたのはうれしいけど。
あの別れ際の最後の言葉はどうかなぁ。

──ありがとう、星月夜の天使! 

天使。天使って。

……肉まんの匂いのせいか、腹がまたぎゅーっと鳴る。行儀悪いけど、夜明け前の闇に紛れて食べながら行こう。──ごめん、伝さんの朝飯は帰ってからな。

お、三つも入ってる! 時間押してるけど、これで次のゴル子ちゃんの散歩も頑張れそうだよ。

あなたこそ天使だ。
曇り眼鏡の中に、うっかり星月夜を宿してしまった人よ!
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