第140話 師走、轢き逃げに遭う 3 終

文字数 2,362文字

ちょっと転んだだけでも、アスファルトの硬い凸凹は肌を裂く。血が出る。自分でうっかり転んだだけでもそうなるのに、自動車の走るスピードで引き摺っていくのだ。結果は考えなくても分かるだろう。

それとも、分からないんだろうか? 想像することも出来ないんだろうか?

服は一瞬で裂け、硬い凸凹はおろしがねのように皮膚を削り……被害者は、自分ではどうすることも出来ない力でただ引き摺られていくしかない。それは地獄の苦しみに匹敵する痛みと恐怖じゃないのか?

そこまで考えて、俺は元妻に申し訳なくなった。
俺がそんな目に遭ったんじゃないかって、彼女は心配してくれたんだな……。

「ごめん」

俺は膝の上に手をついて、頭を下げた。足が捻挫じゃなかったら、土下座しても足りないくらいだと思う。

「心配かけて、ごめん」

申し訳なくて。でも、俺のことをこんなに心配してくれる三人の存在がありがたくて、うれしくて。頭を下げたままの俺は思わず涙を堪えきれなく……。

「だいたい、ドンくさいんですよ、義兄さんは」

溜息混じりの智晴の声に、出かけた涙が引っ込んだ。

「預かった子供を咄嗟に庇ったのは上出来ですが、その拍子に足を捻るなんてね。腕もぶつけてるし。どうしてもっと上手く身をかわせなかったんです。普段の鍛え方が足りませんよ」

鍛え方って、智晴……。

「反射神経、もっと身に付けてくださいね」

いや、ほら、俺だってもう若くないしさ……。

「何言ってるんです。そんなのただの言い訳ですよ。肝心なのは普段の心構えです。道を歩いてるだけといっても、いつ車が突っ込んでくるか分からないんですからね。犬も歩けば棒に当たる、です」

俺は犬かよ!









「今日はパパのとこ、とまる~!」

とダダをこねるののかをなだめ(俺だってたまにはののかの寝顔を見たいけどさ、いくらエアコンが新しくなったとはいえ、冬にこんなコンクリ打ちっぱなしの部屋に寝かせて、風邪引かせたくないじゃないか)、俺は三人を送り出した。

といっても、「鍵は閉めますから」と智晴に言われたんで、座ったままだ。智晴には、何かあった時のために合鍵を預けてある。だから元妻とののかがここにいたんだ。二人をここに連れてきてから、俺を迎えに病院まで来てくれたんだろう。

「ふう……」

俺は無意識に大きく息をついていた。独りになってしまうと、慣れたはずの静けさがよそよそしいものに感じる。

今日は色んなことがありすぎて、疲れた。

朝から犬の散歩や引越しの手伝いや、飛び込みで入った買い物代行なんかをこなした後、とどめが事故。

「はぁ……」

本当にクタクタだ。今夜はもう寝よう。夕飯は三人に説教されながら食べたし。お見舞い代わりだと、智晴の取ってくれた出前の寿司は美味かったな。

「ふふ……」

思い出し笑い。赤ちゃん返りしたみたいに、俺にぴったりはりついていたののか。元妻に、パパは足が痛いのよ? と窘められても、ただ首を振るばかりで、俺から離れなかった。可愛くて、思わず久しぶりに「あーん」なんてやっちゃったよ。甘い伊達巻が好きなんだよな、ののかは。

口いっぱいに頬張って一所懸命もぐもぐしながらも、絶対に俺の膝から降りなかったののか。

あー、やっぱり娘は可愛い。

……アキコちゃんも無事で良かった。あの子も、あのご両親の可愛い娘だ。怪我させなくて、本当に良かった。




その夜、俺はいつの間にか元妻か智晴がベッドに入れておいてくれたらしい湯たんぽを抱えながら眠った。何だか、とても幸せな夢を見たような気がする。

その日から、しばらく湿布のニオイをプンプンさせることになった俺だが……。

まともに歩けないので、先に請けていた依頼をキャンセルしてもらうことになった。お得意様には申しわけないが、しょうがない。この足で犬の散歩は無理だ。ミニチュアダックスフントのリリちゃんみたいない小さな子でさえ無理なんだから、グレートデンの伝さんなんか言うまでもない。

もっとも、伝さんだったら杖代わりになってくれるかもしれないが。

そんなわけで、しばらくは歩かなくても出来る仕事しか請けられなくなってしまった。ああ、何でも屋のはずなのに、これでは看板に偽りが……。

溜息。

収入減を覚悟していた俺だが、何故かちょこちょことそういう依頼ばかりが入ってきて、正直助かった。常にないことなので、不思議に思って話を聞いてみると、どうやら、お得意様たちのご紹介があったらしい。ありがたいことだ。

この時期、配達の多い酒屋さんの店番+表計算ソフトを使った経理やら、寺の古い文書の整理、通販カタログの文字校正(商品のスペックに間違いがないか確認する仕事。文字が細かいんで、根気がいる)、お年寄りの話し相手、etc,etc。

無理をせずに済んでいるので、腕の打ち身も足の捻挫も毎日少しずつ良くなってきているのが分かる。この分だと、治るのも早いんじゃないかな。

よし。正月に向けてがんばるぞ! ののかにお年玉あげたいし。





──日々の仕事に精一杯の俺は知らなかった。身を挺して(ってことになるんだろうなぁ)ひき逃げ車からアキコちゃんを守った俺は、お得意様ばかりではなく、地域の皆様からも一目置かれる「何でも屋さん」になったということを。

そして、今までにもまして、「我が子の送り迎えを依頼するなら、絶対にあの何でも屋さん!」と考える親御さんが増えたということを。

そういう親御さんたちが、俺をめぐり、水面下(?)で熾烈な争い(つまり、俺の取り合いだな)をしているなんて、全然知らなかったのだった。



『轢キ逃ゲニモ負ケズ、な、何でも屋さん』完
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