第42話 俺、ママと呼ばれる。
文字数 3,513文字
助けてくれと思った時に、助けてもらえたことはない。
自覚していないところではいつも誰かに助けられているとは思う。しかし、切実にアクティブに! 乞い願っている時、それが叶えられたことはない。
今、痛切にそれを感じる……。
女装の仕上げにと、俺は高そうなサングラスを掛けさせられた。俺には絶対似合わないが、鏡の中の背の高いセレブっぽい<女>には似合っている。
魂が抜けそうだ。
へたり込んでぼんやりしていると、頭の中をいろんな物事が走馬灯のように駆け巡っていく。パノラマ効果というやつだ。俺、死ぬのか? いや、もう既に半分死んだような気分。
死んでるのは<男の>俺なんじゃないの? なんて言わないでくれ。そういうのはアニマとかアニムスとかいうのに任せてしまいたい。内なる男性性とか女性性とか。
「ママ!」
ぼーっとした頭に、子供の声が聞こえた。可愛い女の子が俺に抱きついてくる。ののかと同じくらいの年頃の……夏樹か。もう変装は済んだのか。子供は簡単でいいなぁ……、って、「ママ」?
「な、夏樹くん。君のママはあっちだよね?」
震える声で、訊ねる。芙蓉の姿を目で探した俺は、驚愕に硬直する羽目になった。
誰?
彼を見てまず思ったのはそれだ。
細身の黒のパンツ、軽そうな黒のジャケット。テクスチャーの違う黒は、中に着た柔らかな生地の白シャツを引き立てて、爽やかでありながらセクシーなニュアンスを感じさせる。結っていた黒い髪はブラウンに染められ、軽く後ろに流してゆるくまとめられていた。
黒いサングラスをちょいと上げ、こちらを流し見るその姿。俺が女だったら心臓にキューピッドの矢が確実に刺さるところだ。
「き、君、芙蓉くん?」
震えそうになる声で、俺は訊ねた。実際、震えていたかもしれない。
「そうだよ。よく葵と間違えなかったね」
「いや、髪が長いから……」
悪戯っぽく芙蓉は唇の端を上げてみせた。
「それが判断材料? ウィッグかもしれないよ?」
「いや、なんていうか、でもやっぱり君は芙蓉くんだよ」
何でだろう。でも分かるんだ。彼は葵ではない。芙蓉だ。
「でも、言葉遣いはどうして?」
そう。ずっと女言葉を使っていたじゃないか。
芙蓉は外人のように人差し指を振ってみせる。こんなにキュートで華のある男もいないだろう。
「今は男の格好をしているだろう? 女の格好をしている時は女言葉。今は男言葉。まとう服に合わせて話し方を変えるのさ。それが俺のポリシー」
「はあ、ポリシーね……」
俺は力のぬけた声で言った。
そういえば、『乙女のポリシー』っていう歌があったっけ……。
「パパ!」
夏樹は今度は芙蓉の膝に抱きついた。うん、それは確かに君のパパだよね。さっきまで見かけはママのようなパパだったけど、今は一応パパらしいパパだ。ちと若いが。
芙蓉は軽々とわが子を抱き上げた。親子というより、若い叔父さんと甥という感じだけど、どっちにしても絵になる。
「あのさ……」
恐る恐る、俺は訊ねた。
「さっき夏樹君、俺のことを<ママ>って呼んだように思うんだけど」
「呼んだね」
芙蓉はあっさり頷いた。
「ママ!」
芙蓉に抱っこされた夏樹が、きらきらと無邪気な笑顔を俺に向ける。それに引きつった笑みを返しながら、俺はさらに突っ込んだ。
「なんで俺がママなんだよ?」
「だって、変装してここから抜け出すんだろう? なら、それくらい凝らなきゃ面白くないじゃないか」
凝るって、面白くないって。おい! じゃあ俺、どれだけ年上女房になるんだよ。夏樹も素直にヒトのことママって呼ぶんじゃねぇよ。
心の中でいろいろな言葉が渦巻いていたが、子供の笑顔を見ているうちに文句を言う気力が失せてしまった。
なあ夏樹、頼むからこんな大人になってくれるなよ……?
化粧美人(但し、大女)と、黙って立ってるだけでフェロモン垂れ流しの色男。桜色のワンピースを着た、ふっくらしたほっぺのかわいい女の子。
親子連れを装うってことか。それはいいとして(いいのか、俺?)、却って目立たないか……? なんていうか、どこの国の人間だよ? ちょっと日本人には見えないぞ。
「はは、は……」
俺は虚ろに笑った。なんでこんなことになったんだろう?
「名前、何て呼ばれたい?」
夏樹を抱き上げたまま、芙蓉は俺の腰を引き寄せようとした。
「げ、やめろって!」
俺はその手を叩き落した。こんな格好をさせられただけでも憤死ものなのに、何するんだ、コラ。
「ママ、酷いなぁ。なあ、夏樹」
「……」
夏樹が、仔鹿のようなつぶらな瞳を悲しげに潤ませて俺を見ている。うう。ののかが泣きそうな時の顔に似ている。
そう思ったら、何も言えなくなった。
神様、ヘルプ!
……もちろん、神様は助けてはくれなかった。
「夏樹はものごころつくかつかないかで母親を亡くしているからね。背が高かったってことだけは覚えているらしいんだ。だから、この変装ごっこが楽しいみたいだよ。俺のことは女の格好の時もパパと呼んでるから、あなたをママと呼べるのがうれしいみたいだ」
息子の頭を撫でながら、少し寂しそうに、それでも明るく語る芙蓉。
こっちの方が辛くなってくるじゃないか。
夏樹はただじっと俺を見詰めている。何か言いたそうな、泣きそうな、そんな瞳。
俺は子供の瞳に負けた。
「……おいで」
俺は夏樹に手をさしのべた。潤んだ黒い瞳は最初は不安そうに俺を見ていたが、おそるおそるというふうに小さな手を伸ばしてくる。
抱き上げてみると、ののかと同じくらいだ。ののかよりもちょっと小柄だと思っていたが、やはり男の子だからだろうか。
小さな声で、ママ、と呟く。首に抱きつく稚い仕草に、俺は内心で溜息をついた。
しょうがないなぁ……。
くすくすと、後ろから笑い声が聞こえてきた。
「似合うよ。扱いに慣れてる。あなたにも子供さんがいたんだっけね」
その<似合う>はどこに係っているのか。俺はムッとした。<子供と俺>が似合っているというなら許そう。だが、女装が似合っているっていうなら、話は違うぞ、葵──!
「夏樹くんと同い年の娘がいるよ!」
そう言って振り返り、俺はまた絶句した。
そこには、知的で落ち着いた雰囲気の青年がたたずんでいた。ぴったりしすぎないオールバックにまとめた髪は、そのままの黒。額に落ちかかる一筋の前髪が陰影を添え、ストイックなフレームレスの眼鏡が却って艶を醸し出している。
「……変身したな」
ぼそりと俺は呟いた。
「そう?」
葵は目だけで微笑んでみせる。どこの貴公子だよ、お前。
素の葵はごく普通のイマドキの大学生に見えたから、今のような格好をしているとまるで別人に見える。つくづく化ける兄弟だな……。
「変身したっていっても、あなたには負けるよ。もしかして、空中元素固定装置を内蔵してる?」
いたずらっぽく首をかしげてみせる葵。
俺は『キュー○ィーハニー』か! 「変わるわよ♪」とか言ってウィンクでもしなきゃならないのか! 七変化しろっていうのか、ああ?
ったく、この小悪魔たちめ!
俺は葵の涼しげな顔をぐっと睨みつけた。
「で?」
俺は挑むように葵に問いかけた。
「俺と芙蓉くんと夏樹くんが親子連れに成りすますとして、君は? そのまま叔父さんの役とは言わないな?」
「まさか」
俺の挑発に乗るでもなくきれいにいなし、葵は唇の端を完璧な角度に上げて優雅な笑みを浮かべてみせる。
「そんな芸のないことはしないよ。ねえ、芙蓉」
「そうだな。葵は良家のお坊ちゃまふうに振舞えばいい。このホテルのフレンチレストランで誰かと食事をした帰り、という設定はどう?」
「いいね」
葵はあいかわらず唇を微笑みの形にしたままだ。なんて言ったっけ、弥勒菩薩のような謎の笑み。
アルカイック・スマイル。
こいつが、いや、こいつらがやると、怖い。モナリザに張り合うつもりだろうか。やめてくれ。あれは絵だからいいんだ。
モナリザのモデルの女性だって、普段は普通に大口開けて笑ったり、怒って目を吊り上げたりしていたこともあっただろう。そういつもいつもあんな微笑を浮かべていたわけじゃないはずだ。
でも、こいつらはやるとなったら誰が見ていなくてもずっとその状態を保ちそうだ。しかも、さしたる苦労もなく。
役者にでもなった方がいいんじゃないか、こいつら。