第106話 お盆の出来事 1

文字数 2,582文字

小さな火が、焙烙の中でちりちりと燃えている。
八月十三日、盆の入り。独り黙々と、俺は迎え火を焚いている。

この煙に乗って、精霊が帰ってくるというけれど。

風に散らされる白い煙を、ぼんやりと眺める。今日は眩しいくらいの晴天だが、風が強い。焙烙の中身に点火するのも一苦労だった。何しろ、ここは谷間ビルの屋上。予想もしない方向から突風が吹きつけたりする。

うーん、こういう時はやっぱり百円ライターでは役不足か。某軍御用達のジッポなら、強風でも消えないというけど。でも俺、タバコ吸わないしな。

わざわざ迎え火用に専用ライターを買うのもなぁ。

最後の煙の名残りが風に消えるのを見送り、俺は立ち上がった。あー、変にしゃがむと腰が痛いな。

「さて、行くか!」

景気づけにわざと元気な声を出してみる。ふと見上げると、刷毛でさっと刷いたような薄い雲。上空でも風が強いのか、煙にも似たそれは、見る見るうちに形が変わって消えていく。

父と母、俺の双子の弟。

帰ってこれるのかな、俺のところに。ちゃんと迎え火に気づいてくれるだろうか。

立秋を過ぎた空は、残酷なほどに激しく輝く真夏の太陽を抱いているにもかかわらず、どこか寂しい翳りがある。明るいのに、眩しいのに、もの悲しいような気持ちになるのは何故だろう。

はっ! いかんいかん。俺にシリアスは似合わない。

今日はこれから、吉井さんちの愛犬、グレートデンの伝輔号、略して伝さんの世話に行くのだ。吉井さん一家は、お盆休みを利用して南国・台湾に旅行中である。

餌と水をやって、犬小屋の掃除をし、体にブラシをかけてやる。伝さん、『バスカヴィル家の犬』もかくやとばかりの小牛ほどの大迫力大型犬だが、あれで意外に可愛い性格をしていて、俺にもよく懐いてくれている。

あんなにデカイのに、伝さんの一番の仲良しが近所の小山さんちの飼い犬、ポメラニアンのドンちゃんというのも彼のチャームポイント(?)のひとつだ。

散歩なんかで出会うと、でっかい伝さんが力を加減してドンちゃんと戯れる姿がなかなか微笑ましい。小山さんもにこにこしながら彼ら二匹の友情を見守っている。いい人だ。

俺はドンちゃんにも懐かれているので、たまにそっちの散歩も引き受ける。グレートデンとポメラニアンでは歩くペースが違うので、一緒に散歩させたことはないが、あいつらのあの仲の良さならけっこうイケルかも、とは思っている。いつかは試してみたいことのひとつだ。

何でも屋の俺は、お盆の時期にはこんなふうに飼い主旅行中のペットの世話を頼まれることが結構多い。報酬はわりとはずんでもらえるし、旅行のお土産ももらえるしで、俺的にはオイシイ仕事だ。

日が翳って暗くなってきたら、伝さんを散歩につれていく。その後は高田さんちの祐介くんを塾にお迎えに。最近は物騒だからな。

あれこれ段取りを考えながら、俺はオガラの燃え尽きた焙烙を持って下に降りようとした。と、ん? 視界の隅に、何やら派手な色合いのものがはためいている?

「あ、俺のトランクス!」

思わず俺は叫んでいた。昨日洗濯物を取り入れた時に見当たらないと思ったら、あんなところに引っかかってたのか。風で飛ばされたんだな。

屋上の周囲を囲む簡易フェンスの向こう、一度も使われたことのない看板設置用の足場。シュガーピンクのキティちゃん柄トランクスが引っかかっているのは、そのパイプ製の足場だった。

お、俺の趣味じゃないぞ? 別れた妻の許にいる、俺の最愛の娘ののかからのプレゼントなんだ。

他に、ビビッド・グリーンとショッキング・ピンク、エメラルド・グリーンの色違いがあるらしいが、頼むから薄い色にしてくれとお願いしたら、シュガーピンクになった。不本意だが、夏の薄色アウターにひびきそうな濃い色よりマシだ。ちなみに、ののかはおそろいの柄のパジャマを買ったそうだ。

ののかは、叔父であり俺の元義弟の智晴からデイトレーディングの手ほどきを受けているらしい。儲け幅は小さいものの、それなりに稼いでいるそうだ。まだ五歳なのに……。そんな子供に、株と通販の利用の仕方を教えてしまった智晴を、いつかシメてやろうと俺は考えている。

いや、今はそれよりも、突風に飛ばされてしまいそうなトランクスだ。早く拾いに行かなければ。あんなものが人目に触れたら恥ずかしい。たとえ、俺のものだと知られないとしても。

俺は簡易フェンスから身を乗り出し、足場に引っかかったキティちゃんトランクスに手を伸ばす。が。

「……!」

あと少し、というところで、ものすごい突風が俺の背中を押した。

うわあ、眼下に真っ黒なアスファルト道路が見える! 太陽に灼かれて、陽炎が立ってそうだ。あんなところに落ちたら、死ぬ──。

アスファルトが、冷えて固まった溶岩のように見えて慄いた時。

「うわっ!」

俺はたまらず尻餅をついた。ビルの真下から、突然きつい風が上昇気流のように駆け上がってきたのだ。

背中をどつかれ、アッパーカットを喰らってダウン。スリーカウント、ワン、ツー、スリー……って、違う! ここはリングじゃないし! それ以前に、俺はボクサーじゃない。

いや、レスラーでもないけどもさ。

「はー……」

俺は思わず安堵の溜息をついていた。いや、今のは怖かった。マジで不本意なスカイダイビングをかますところだったよ、屋上から。

いつも忌々しく思っていたビル風だけど、今回は助けられた。時々、予想もつかない方角から風速何メートルだよ、みたいな風が吹くからな。

「ん?」

ふと足元を見ると、俺が掴もうとしていたキティちゃんのトランクスが落ちていた。さっきの垂直上昇型(?)ビル風で、引っかかっていたところから吹き飛ばされたんだろう。やれやれだ。また風にさらわれたてはたまらないので、俺は急いでそれを拾った。

広げてみると、プリントされたキティちゃんが、とぼけた顔してすましている。

オヤジの穿く下着でコレは恥ずかしいが、先日ネット通販で見かけた七福神トランクスとどっちが恥ずかしいだろう、とボケたことを考えながら、俺は仕事に出かけるべく、屋上から一旦事務所(兼、自宅)に戻ることにした。

グレートデンの伝さんが待っている。
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