第277話 おにぎりならばかまど炊き

文字数 2,633文字

「こんにちはー」

俺は元気よく挨拶を返す。──昼の光の中のこの人は、地味ながら整った顔立ちも相俟って、爽やかにすら見えてしまう。そういうところが、やっぱ胡散臭いなぁ……。ま、いいけど。だってそれが真久部さんだし。

「ちょっと今、ひと仕事終えたところなんです。真久部さんは?」

ご近所とはいえ、こんな時間に外を歩いてるなんて珍しい。そう思い、たずねてみると、唇の両端をわざとらしくニッタリと吊り上げてみせる。

「何でも屋さんを迎えに来たんだよ」

「え?」

俺、今日、慈恩堂の店番請けてたっけ──? 昨日お客さんといっしょにカヤコの出るホラーなDVDを観たから、雰囲気のありすぎるあの店で、たった一人で過ごすのはちょっと……最近慣れてきちゃったような気もするけど、でも、二階への階段の暗がりから子供の白い顔が現れたりしそうで、怖……、などと混乱していると、真久部さんがくすっと笑う。

「冗談です。ちょっとそこの富貴亭まで、おにぎりを買いにね」

いつも出前してくれる若い衆がインフルエンザに罹ったらしくて、今日はいないというから散歩がてら出てきたんです、と言う。

「あ、そうか。富貴亭はこの喫茶店のすぐ向こうですもんね」

この辺りの地図を頭に浮かべて、納得した。今風高級料亭の富貴亭は、かまどで炊いた美味しいご飯で有名になりつつある。お昼限定でおにぎりも販売するようになり、板長に指導されながらかまど炊飯の修行をしている若い衆も、だいぶん上達しているようだと、ちょっと前にこの人から聞いた。

「つい十個も買ってしまって、自分でもどうしてだろうと思ってたんですが……そうか、ここで何でも屋さんに会うことになっていたからなんだねぇ」

謎の納得をしながら、真久部さんはひとりうなずいている。

「……」

俺は何だか危険を感じ、下りていた自転車にまたがり直した。

「じゃ、じゃあ、俺はこれで。お仕事のご用命がありましたら、また声をかけてくださいね!」

勢いをつけてペダルを踏み出そうとした、その時。

「あ痛っ!」

足が滑って、ペダルで思いっきり脛を打ってしまった。いだだ……。

「まあまあ、そう焦らずに」

大丈夫ですか、と言いながら、真久部さんがまた読めない笑みを浮かべている。

「この時間だから、これからお昼なんでしょ、何でも屋さん」

「え、まあ……」

「おにぎりがたくさんあるから、うち(慈恩堂)に来ませんか? すぐそこですし」

富貴亭のかまど炊きご飯は、やっぱり格別ですよ、と寄り道を唆してくる。

「いや、その──」

「実はね、今日はどうしてか、朝から大量の粕汁を作ってしまって……。いえ、粕汁というより、粕汁風味の豚汁、かなぁ? 豚肉をたっぷり、玉ねぎ、人参、大根、ささがきごぼうを入れて、細かく切ったサツマイモを入れるのがうちの味なんですが、いかがですか?」

「う……」

今日のような寒い日に、熱々具沢山汁物の誘惑なんて──。

 ぐー……。

腹が勝手に返事を。やめろ! でも、一度鳴ったら止まらない。くっ! 今日は朝飯のあと、軽食を摂る暇がなかったんだよ。いつも早朝五時頃朝食だから、昼までのあいだに何か食べないと腹が保たない──。

「富貴亭のおにぎり、塩むすびも美味しいですけど、海苔もなかなかなんですよ。いい海苔を使っているようですから。中の具はすっきりした梅干しでねぇ」

美味しいご飯に、熱い粕汁。

「炊き上がりを握ってもらいましたけど、店に着くまでに冷めるから、軽くレンジでチンしてほかほかにすると美味しいですよね。さあさあ、行きましょう」

にーっこり。読めない笑みで、怪しく笑う真久部さん。怪しいんだけど、胡散臭いんだけど──。

俺は、温かいご飯と熱い粕汁の誘惑に負けた。










 ぼーんぼーんぼーん……
 チッぼーんチッぼーん……
 ぼんぼんぼんチッぼんぼんぼんチッ……


今日も慈恩堂の古時計たちは好き勝手に時を刻んでる。入ってすぐの棚にある見慣れた布袋様の腹を横目に、薄い煙を上げているように見える鯉の香炉をスルー。鯉こわい鯉こわい……なんて思ったらダメだ。眼をそらせたら、あっちは怪しい招き猫エリア……ん? 小判を見せつけてくるあいつはいるけど、水無瀬家から引き取ったという、元は呪いの招き猫が、いない……?

……
……

いや、気にしちゃいけない。見ない見えない聞こえない。すべては気のせい気の迷い。うっかりここ(慈恩堂)に来ちゃったからには、いつもの呪文、いや、心得を──。

「どうぞ、上がって待っててください。すぐ運んできますからね」

帳場のある畳エリア、その真ん中のちゃぶ台こたつを示すと、真久部さんは土間の方からささっと台所に入って行った。

「……」

何度も店番を務めて、勝手知ったる慈恩堂。俺は無言で座布団を二つ出してきて、いつも自分と真久部さんが座る場所に置く。こたつのスイッチを入れると、中はすぐに暖かくなる。慣れてしまったこの手順、俺はちょっと真久部さんに転がされすぎじゃないだろうか。

うっかりそんな疑問を浮かべてしまったけど、ほどなく畳側の引き戸から入ってきた店主の持つ、お盆の上に載ってる器から立つ濃い湯気に、どうでもよくなってしまった。

「おかわり沢山あるから、遠慮なく言ってください」

「ありがとうございます!」

だって、真久部さんの作るものって、美味しいんだ。ミネストローネスープとか、マフィンとか、パウンドケーキとか。栗入りのやつは美味かったなぁ──って、それよりも今は、粕汁粕汁。大きめの汁椀に、食欲をそそる味噌と酒粕のかぐわしい香り。ひと口啜ると、濃厚な味わいにもっともっととすきっ腹の胃が騒ぐ。

ほどよくとろけた玉ねぎに、千切りにした大根と人参の煮え具合は絶妙、たっぷりの豚肉は脂が多すぎず少なすぎず。ささがきごぼうのクセが具材と酒粕にいい感じに絡んで、細かく切ったサツマイモの甘さがいい舌休めになる。

あっというまに一杯食べてしまい、次のターゲットにかかる。かまど炊きご飯の塩むすびの、噛むほどに広がる甘みに感動し、大きな海苔で包まれたおにぎりの、上等な磯の香とすっきりした梅干の酸っぱさのコラボレーションを愉しむ。

気づけば、俺はおにぎりを五つ、粕汁を三杯も平らげていた。いや、真久部さんがさっとおかわりを入れてくれるから……。

「ご、ごちそうさまでした……」

俺、ちょっとがっつきすぎだよなぁ。

「おそまつさまでした」

真久部さんがにっこり笑う。──この人も、いつの間にかおにぎりを四つ食べている。粕汁も俺と同じタイミングでおかわりしてたみたいだし……。
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