第354話 鏡の中の萩の枝 5
文字数 2,082文字
ぼーっとしたまま考えていると、悪戯っぽい瞳が俺を捉える。
「ほう、猫又ねぇ? 会ったことがあるのかい?」
俺、思ったことをうっかり口に出してた?
「まさか。見たことないですよ!」
いくらこの人が胡散臭いからって、そんな妖怪(猫又って、妖怪だよな?)と一緒にしたら失礼……なはず。だから俺は慌てて首を振った。こっちを見てニヤニヤしてる伯父さんは気にしてないような気もするけど、ここは否定しておくべきだと本能が警告してくる。
「……ふーん? 本当に?」
「ええ、もちろんです」
見たことないっていうのに、疑わしそうな瞳が不思議だ。俺の無意識失礼発言(本当に口に出してたのかな……?)より、そっちのほうが気になってそう。だけど、猫又なんて空想の産物、現実にその辺を歩いてるわけないじゃないか。彷彿とさせる人物は目の前にいるけど。
「まあ、いいですよ。──きみのその腕時計、なかなか面白いねぇ?」
そう言って、またもや思わせぶりに目だけで笑い、伯父さんは美味そうにお茶を啜っている。この人が古い道具と会話できることは知ってるけど、まさか、こんな新しい時計とも話せる、のか? だとしたら、何を……。
「……」
ふと、何かが頭の隅を過って行った。それは、時々見掛ける野良の白い猫の姿をしていたような気がする。俺を事故の直撃から護ってくれたとしか思えない、あの不思議な猫──。
朝焼けの中の幻は、心の中に大切に仕舞ってある。
「いや、その、ですね」
複合商業施設のショップで適当に買った腕時計なんて、どうでもいい。
「その、鏡は、どういう……」
目の前で突然人が消えた恐怖が、伯父さんの胡散臭い言動で薄まったというか、なんというか。俺はようやく萩の鏡の不思議さに意識を向けることができた。
「これは、私の友人の大切にしていたものでねぇ」
ほんの少し、懐かしそうな目になる。
「鳥居さんの、お父さんですか」
倒れる前に修理を依頼したのは、慈恩堂じゃなくて、真久部の伯父さんのほうだったのか。そう思ってたずねたら、あっさり否定された。
「いや、違いますよ」
「え?」
「“鳥居”なんて人間は、この世に存在しないんですよ。同じ苗字の人はたくさんいるだろうけどね」
「え……?」
俺、ちゃんと鳥居さんに会ったよ? お邪魔するとき、表札だって確認したし。
「でも、あの人、鳥居さんでしたよ。呼び鈴押したら出て来てくれたし、話だってしたし……俺のことも知ってました、あのご近所の植木の剪定してたことも」
「棲 んでいたからね。あれは」
「鳥居さんちに住んでた鳥居さんが、鳥居さんじゃない……?」
真久部の伯父さんの言ってることがわからない。何故かとびきりご機嫌なのはわかるけど、ほんと、それしかわからない。混乱してきた俺の頭は、考えたくない答を弾き出してしまった。
「もしかして……今日俺がしゃべってたのって、幽霊だったんですか、鳥居さんの……?」
この世に存在しないというなら、生きてる人間じゃないってことになる。ってことは、やっぱりあれは幽霊だったとしか──。
「大丈夫ですよ、何でも屋さん。きみが今日会ったのは、幽霊なんかじゃないですからね」
慄く俺に、真久部さんが力強い言葉を掛けてくれた。
「だから、怖がらなくてもいいんだよ。きみは何もおかしなことはしていない。ただ、鏡を持って行っただけでね」
「そう、鏡を持って、捕まえて来てくれた」
伯父さんが、ニイッと笑う。こ、こわ……。
「俺は、何を……捕まえたっていうんですか?」
スタイリッシュ仙人の笑顔の圧力に負けて、俺はストレートに聞いてしまった。直球を投げるしかなかった。
「登場人物、というやつさ。小説の中の」
「へ?」
「私の友人は、小説家だった。それなりに売れてたんだが、ある日うっかり死んでしまってね。──本当にうっかりだったんだよ、自宅の廊下で滑って転んで頭を打つなんて」
「……」
「元々、何もないところで転ぶような奴だったよ。そんなことで死んだら、葬式で笑ってやるんだからな、と呆れてたものだが──、実際は笑えないものだねぇ」
ここではないどこかを見ながら、苦笑い。しょうがない奴だな、と呆れつつ、でも諦めるしかなかった友 の気持ちが伝わってくる。
「“鳥居”というのは、あいつの絶筆となった作品の主人公だ。作者に死なれて、いきなり道先が断たれた。だから逃げ出した──というより、迷い出てしまったんだね、現実世界に」
本来この世界にいるべきものではない、という意味では、やっぱり幽霊みたいなものだと思わないかい? と、ちょっと意地悪な顔をしてみせる。
「でも、幽霊とは違うんですから」
「マジシャンでもないだろう?」
俺 を怖がらせるな、と窘める甥っ子に、意地悪仙人はわざとらしく首を傾げてみせる。
「……」
のらりくらりと言い抜ける伯父に閉口してしまったのか、真久部さんはあとは黙って俺に茶菓子を勧めてくれるだけだった。俺がまだ手をつける気になれないのをわかってくれてるんだろう、個包装のものばかりだ。
「この手鏡はねぇ、その友人が蚤の市で見つけたものなんだよ」
そんな甥の姿を楽しげに眺めながら、真久部の伯父さんは言った。
「ほう、猫又ねぇ? 会ったことがあるのかい?」
俺、思ったことをうっかり口に出してた?
「まさか。見たことないですよ!」
いくらこの人が胡散臭いからって、そんな妖怪(猫又って、妖怪だよな?)と一緒にしたら失礼……なはず。だから俺は慌てて首を振った。こっちを見てニヤニヤしてる伯父さんは気にしてないような気もするけど、ここは否定しておくべきだと本能が警告してくる。
「……ふーん? 本当に?」
「ええ、もちろんです」
見たことないっていうのに、疑わしそうな瞳が不思議だ。俺の無意識失礼発言(本当に口に出してたのかな……?)より、そっちのほうが気になってそう。だけど、猫又なんて空想の産物、現実にその辺を歩いてるわけないじゃないか。彷彿とさせる人物は目の前にいるけど。
「まあ、いいですよ。──きみのその腕時計、なかなか面白いねぇ?」
そう言って、またもや思わせぶりに目だけで笑い、伯父さんは美味そうにお茶を啜っている。この人が古い道具と会話できることは知ってるけど、まさか、こんな新しい時計とも話せる、のか? だとしたら、何を……。
「……」
ふと、何かが頭の隅を過って行った。それは、時々見掛ける野良の白い猫の姿をしていたような気がする。俺を事故の直撃から護ってくれたとしか思えない、あの不思議な猫──。
朝焼けの中の幻は、心の中に大切に仕舞ってある。
「いや、その、ですね」
複合商業施設のショップで適当に買った腕時計なんて、どうでもいい。
「その、鏡は、どういう……」
目の前で突然人が消えた恐怖が、伯父さんの胡散臭い言動で薄まったというか、なんというか。俺はようやく萩の鏡の不思議さに意識を向けることができた。
「これは、私の友人の大切にしていたものでねぇ」
ほんの少し、懐かしそうな目になる。
「鳥居さんの、お父さんですか」
倒れる前に修理を依頼したのは、慈恩堂じゃなくて、真久部の伯父さんのほうだったのか。そう思ってたずねたら、あっさり否定された。
「いや、違いますよ」
「え?」
「“鳥居”なんて人間は、この世に存在しないんですよ。同じ苗字の人はたくさんいるだろうけどね」
「え……?」
俺、ちゃんと鳥居さんに会ったよ? お邪魔するとき、表札だって確認したし。
「でも、あの人、鳥居さんでしたよ。呼び鈴押したら出て来てくれたし、話だってしたし……俺のことも知ってました、あのご近所の植木の剪定してたことも」
「
「鳥居さんちに住んでた鳥居さんが、鳥居さんじゃない……?」
真久部の伯父さんの言ってることがわからない。何故かとびきりご機嫌なのはわかるけど、ほんと、それしかわからない。混乱してきた俺の頭は、考えたくない答を弾き出してしまった。
「もしかして……今日俺がしゃべってたのって、幽霊だったんですか、鳥居さんの……?」
この世に存在しないというなら、生きてる人間じゃないってことになる。ってことは、やっぱりあれは幽霊だったとしか──。
「大丈夫ですよ、何でも屋さん。きみが今日会ったのは、幽霊なんかじゃないですからね」
慄く俺に、真久部さんが力強い言葉を掛けてくれた。
「だから、怖がらなくてもいいんだよ。きみは何もおかしなことはしていない。ただ、鏡を持って行っただけでね」
「そう、鏡を持って、捕まえて来てくれた」
伯父さんが、ニイッと笑う。こ、こわ……。
「俺は、何を……捕まえたっていうんですか?」
スタイリッシュ仙人の笑顔の圧力に負けて、俺はストレートに聞いてしまった。直球を投げるしかなかった。
「登場人物、というやつさ。小説の中の」
「へ?」
「私の友人は、小説家だった。それなりに売れてたんだが、ある日うっかり死んでしまってね。──本当にうっかりだったんだよ、自宅の廊下で滑って転んで頭を打つなんて」
「……」
「元々、何もないところで転ぶような奴だったよ。そんなことで死んだら、葬式で笑ってやるんだからな、と呆れてたものだが──、実際は笑えないものだねぇ」
ここではないどこかを見ながら、苦笑い。しょうがない奴だな、と呆れつつ、でも諦めるしかなかった
「“鳥居”というのは、あいつの絶筆となった作品の主人公だ。作者に死なれて、いきなり道先が断たれた。だから逃げ出した──というより、迷い出てしまったんだね、現実世界に」
本来この世界にいるべきものではない、という意味では、やっぱり幽霊みたいなものだと思わないかい? と、ちょっと意地悪な顔をしてみせる。
「でも、幽霊とは違うんですから」
「マジシャンでもないだろう?」
「……」
のらりくらりと言い抜ける伯父に閉口してしまったのか、真久部さんはあとは黙って俺に茶菓子を勧めてくれるだけだった。俺がまだ手をつける気になれないのをわかってくれてるんだろう、個包装のものばかりだ。
「この手鏡はねぇ、その友人が蚤の市で見つけたものなんだよ」
そんな甥の姿を楽しげに眺めながら、真久部の伯父さんは言った。