第327話 芒の神様 6
文字数 2,172文字
「昔から、一人であそこに行ってはいけないと、伯父には言われてたんです。だから今までも、必ず誰かと一緒だったんですが」
今回、何でも屋さんにつきあってもらったのも、ただの保険のつもりだったんです、と言いながら、視線は手の中で湯気を立てている湯呑み茶碗にある。
「こんなことになったのは初めてで……ご迷惑をおかけするつもりはなかったんですよ」
その言葉が心外で、俺はちょっとムッとしてしまった。
「何でですか、真久部さん。迷惑だなんてありえませんよ。俺なんかちょっと探しに行っただけじゃないですか。真久部さんすぐ見つかったし。何も迷惑じゃないです」
「何でも屋さん……」
「ほら、真久部さんも一緒にこれ食べましょうよ!」
胡散臭さの少ない気弱な笑みなんて、この人らしくない。元気を出してほしくて、俺は茶菓子の山の中からヨッ〇モックの細長いクッキーを取り、用意されてる銘々皿にのせて差し出した。俺の好物〇セイのバターサンドは、調子悪いときにはちょっと重いかな、と思ってやめといた。
「せっかくのお菓子、俺ばっかりいただくの申しわけないですもん。さあさあ!」
出してもらったほうが言うのも変だけど、どれも五つ星の美味しさですよ、とお道化てみせると、ちょっと笑ってくれた。
「そうだね。僕も食べようかな……」
「疲れたときは、甘いものにかぎりますよ!」
身体でも、心でも、という言葉は心の中だけにしておいた。
…… …… ……
チ……チ……チ……
チッ……チッ……チッ……
ッ……ッ……ッ……
古時計どもが時を刻む店内は静かで、今日もお客の来る気配はない。それでもいいんだ、これが慈恩堂。誰が来ても来なくても、いつだって、じんわりほんわり怪しい気配は変わらないから、真久部さんもそれと同じでいてほしい。俺もすっかり毒されてるのかもしれないけど、いいんだよ、それで。
心の中で俺が自分に言い聞かせてるあいだに、少しずつクッキーを食べ終えた真久部さんは、温くなったお茶を片付けて、新しいのを淹れ直してくれた。ちょっと熱めで、二人してゆっくりと味わうように啜る。
「野点もいいですけど、こうやっていつものように飲むお茶もいいなぁ。落ちつくというか」
どう話したらいいかと迷いながら、俺はとりとめもなく言葉を続けた。
「なんかね……あの時、何があったのか俺、気になってて、落ち着かなくて。でもそれって真久部さんが心配だから気になるというか、様子が変だったし……だけど、話したくないなら、話さなくていいんですよ。うん。今、一緒にこうやってお茶飲んで、甘いもの食べて。それだけでいいように思うんです」
無事ならそれで、と言うのはやめておいた。ちょっと重いかな、と思って。
湯気を見ながら黙って聞いていた真久部さんは、茶碗を茶托に戻すと、すっと頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます、何でも屋さん。だけど、話したくないってことはないんだよ。ただ、自分が情けなくて、それでちょっと落ち込んでるだけなんです」
焦げ茶と榛色のわかりにくいオッドアイに、小さく自嘲の影が差す──。
なんで自分が情けないって、そんな……んー……もしかして、やっぱりそういうことなのかなぁ? そうなんじゃないかな、とはうっすら思ってたんだけどさ。
「つまり、真久部さん、煙草と塩とワンカップ酒を持っていくの、忘れちゃってたんですね。あの日」
「え……?」
真久部さんてば、何故かぽかんと口を開けている。いやいや、つき合いも長くなってきたし、俺だってわかってますって。
「ほら、慈恩堂の仕事のとき、いつも俺には用意してくれるじゃないですか。何かわからないけど、何があるかわからない時のための、念のためセット」
煙草、塩、清酒。同じところをぐるぐる歩いたりとか、意味もないのに妙に怖い思いをしたりした時とか用の。──煙草は、特に道に迷ったときに効果がある。
「今回の俺の仕事は、あのホテルの敷地内で完結するから、いつものそれは必要なかった。そうですよね? 真久部さんも、見えるところから立ち会ってたってことだし」
「え? ええ、それはそうですけど」
「だからうっかりして、ご自分のぶんを忘れちゃったんでしょう? 何か変なことがあるかもしれない、広い薄の野原を歩くっていうのに。で、迷わないようなところで道に迷って……おかしなことになったのって、今回が初めてだっていうし。きっと油断しちゃったんですね!」
なんだっけ、こういうの。
「医者の不養生っていうか、紺屋の白袴みたいな。専門家って、ついつい自分のこと疎かったりするじゃないですか。だからあんまり気にしなくても……」
「……」
「真久部さん?」
地味ながら男前な顔が、にっこり笑ったまま固まっている。
「何でも屋さん」
「はい?」
「今回のは、何でも屋さんが思ってるみたいなのとはち ょ っ と 違うんですよ。そういうものではない」
「え?」
道に迷わせられる系っていうと、狐や狸のたぐいだと思ったんだけど、違うの?
「えっと、それじゃあ──」
俺の考える程度のことはわかっているのか、真久部さんは首を振る。
「何でも屋さんが以前出会った“悪いモノ”とも違います──先日のあれには、煙草の煙は効かないんだよ」
そういうものではないんです、ともう一度同じことを言う。
「だって、あれは神様だから。神様は煙草の煙でどうこうできません」
今回、何でも屋さんにつきあってもらったのも、ただの保険のつもりだったんです、と言いながら、視線は手の中で湯気を立てている湯呑み茶碗にある。
「こんなことになったのは初めてで……ご迷惑をおかけするつもりはなかったんですよ」
その言葉が心外で、俺はちょっとムッとしてしまった。
「何でですか、真久部さん。迷惑だなんてありえませんよ。俺なんかちょっと探しに行っただけじゃないですか。真久部さんすぐ見つかったし。何も迷惑じゃないです」
「何でも屋さん……」
「ほら、真久部さんも一緒にこれ食べましょうよ!」
胡散臭さの少ない気弱な笑みなんて、この人らしくない。元気を出してほしくて、俺は茶菓子の山の中からヨッ〇モックの細長いクッキーを取り、用意されてる銘々皿にのせて差し出した。俺の好物〇セイのバターサンドは、調子悪いときにはちょっと重いかな、と思ってやめといた。
「せっかくのお菓子、俺ばっかりいただくの申しわけないですもん。さあさあ!」
出してもらったほうが言うのも変だけど、どれも五つ星の美味しさですよ、とお道化てみせると、ちょっと笑ってくれた。
「そうだね。僕も食べようかな……」
「疲れたときは、甘いものにかぎりますよ!」
身体でも、心でも、という言葉は心の中だけにしておいた。
…… …… ……
チ……チ……チ……
チッ……チッ……チッ……
ッ……ッ……ッ……
古時計どもが時を刻む店内は静かで、今日もお客の来る気配はない。それでもいいんだ、これが慈恩堂。誰が来ても来なくても、いつだって、じんわりほんわり怪しい気配は変わらないから、真久部さんもそれと同じでいてほしい。俺もすっかり毒されてるのかもしれないけど、いいんだよ、それで。
心の中で俺が自分に言い聞かせてるあいだに、少しずつクッキーを食べ終えた真久部さんは、温くなったお茶を片付けて、新しいのを淹れ直してくれた。ちょっと熱めで、二人してゆっくりと味わうように啜る。
「野点もいいですけど、こうやっていつものように飲むお茶もいいなぁ。落ちつくというか」
どう話したらいいかと迷いながら、俺はとりとめもなく言葉を続けた。
「なんかね……あの時、何があったのか俺、気になってて、落ち着かなくて。でもそれって真久部さんが心配だから気になるというか、様子が変だったし……だけど、話したくないなら、話さなくていいんですよ。うん。今、一緒にこうやってお茶飲んで、甘いもの食べて。それだけでいいように思うんです」
無事ならそれで、と言うのはやめておいた。ちょっと重いかな、と思って。
湯気を見ながら黙って聞いていた真久部さんは、茶碗を茶托に戻すと、すっと頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます、何でも屋さん。だけど、話したくないってことはないんだよ。ただ、自分が情けなくて、それでちょっと落ち込んでるだけなんです」
焦げ茶と榛色のわかりにくいオッドアイに、小さく自嘲の影が差す──。
なんで自分が情けないって、そんな……んー……もしかして、やっぱりそういうことなのかなぁ? そうなんじゃないかな、とはうっすら思ってたんだけどさ。
「つまり、真久部さん、煙草と塩とワンカップ酒を持っていくの、忘れちゃってたんですね。あの日」
「え……?」
真久部さんてば、何故かぽかんと口を開けている。いやいや、つき合いも長くなってきたし、俺だってわかってますって。
「ほら、慈恩堂の仕事のとき、いつも俺には用意してくれるじゃないですか。何かわからないけど、何があるかわからない時のための、念のためセット」
煙草、塩、清酒。同じところをぐるぐる歩いたりとか、意味もないのに妙に怖い思いをしたりした時とか用の。──煙草は、特に道に迷ったときに効果がある。
「今回の俺の仕事は、あのホテルの敷地内で完結するから、いつものそれは必要なかった。そうですよね? 真久部さんも、見えるところから立ち会ってたってことだし」
「え? ええ、それはそうですけど」
「だからうっかりして、ご自分のぶんを忘れちゃったんでしょう? 何か変なことがあるかもしれない、広い薄の野原を歩くっていうのに。で、迷わないようなところで道に迷って……おかしなことになったのって、今回が初めてだっていうし。きっと油断しちゃったんですね!」
なんだっけ、こういうの。
「医者の不養生っていうか、紺屋の白袴みたいな。専門家って、ついつい自分のこと疎かったりするじゃないですか。だからあんまり気にしなくても……」
「……」
「真久部さん?」
地味ながら男前な顔が、にっこり笑ったまま固まっている。
「何でも屋さん」
「はい?」
「今回のは、何でも屋さんが思ってるみたいなのとは
「え?」
道に迷わせられる系っていうと、狐や狸のたぐいだと思ったんだけど、違うの?
「えっと、それじゃあ──」
俺の考える程度のことはわかっているのか、真久部さんは首を振る。
「何でも屋さんが以前出会った“悪いモノ”とも違います──先日のあれには、煙草の煙は効かないんだよ」
そういうものではないんです、ともう一度同じことを言う。
「だって、あれは神様だから。神様は煙草の煙でどうこうできません」