第15話 後日談 4
文字数 3,064文字
「兄弟ですか……」
五月のあの日。店主の真久部さんに頼まれて、慈恩堂で店番してたあの時。
抗いがたい睡魔に負けた俺の、夢の中に出てきたあの子たちは、やっぱりこの百日紅家の神棚(というか、これだけ立派だと、屋敷内神社といっていいんじゃないだろうか)の狛犬の化身だったのかな。……そうなんだろうなぁ。
──ぼく、まくべのみせもおじさんもきにいったよ。おじさんのにおい、ちゃんとおぼえたから、また兄ちゃんとあそびにくるね
あの時と同じ幼い子供の声を、もう一度聞いたような気がした。
ああ、そうだった。あの子たちにお菓子あげたかったな。店の留守番を引き受けた時には、いつも店主がこれでもかってくらい菓子をいっぱい用意してくれてたから。双子はすぐ消えてしまったから、果たせなかったけれども。
いや、あれは夢だったんだっけ。だけど、とてもリアルだったから、もしかしたら現実だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺はすっと誘われるように<アルファ>の頭を撫で、また、<オメガ>の頭を撫でていた。どこかから、子供のくすぐったそうな笑いが聞こえてくるような気がした。
「……ん……──さん……」
ん? んー? ふかふかの仔犬、可愛いなぁ。
「……い……ょぶ……か? ……さん……」
ふふ、二匹とも固太りして。鼻もつやつや。よしよし、健康状態は大変よろしい。って、おい。お前たち、重いぞ。飛びつくな、かじるな。ちっとも痛くないけど、ダメ!
「……──さ……ん!」
こらこら、顔舐めるなって。
「──さん!」
「んー、もう、舐めるなってば、くすぐったいだろ……って、あれ?」
「大丈夫ですか?」
ぱちっと音がするほどの勢いで目を開けた。開けた、ということは、それまで目を閉じてたってことだ。目を開けた先には、百日紅氏の少し青ざめた顔があった。
「どうしたんですか、百日紅さん。顔色が良くないんじゃ……」
そこまで口にして、おかしなことに気づいた。
俺、寝てる? 畳の上に寝そべってる? 何で?
目をぱちくりさせていると、百日紅氏がホッと息をつくのが聞こえた。
「良かった……目を覚まさないのかと思いましたよ」
「あの……俺、眠ってました?」
百日紅氏が無言で頷く。全然そんな感覚はなかったけど、俺はいつの間にか眠っていたらしい。
「時間にして、そうですね、五分くらいでしょうか。狛犬たちの頭を撫でてらっしゃるな、と思ったら、急にその場にくずおれて……」
「……五分、ですか」
俺は上半身を起こしてみた。別に、どこもなんともない。軽く頭を振ってみたが、眩暈がするわけでもなかった。
「全然記憶がありません……どうしたんだろ……」
もしや、脳梗塞とか脳溢血とかクモ膜下出血とか? でも、呂律が回らないわけじゃないし、どっか痺れてるわけでもないし、むしろ、気分爽快?
足を投げ出して座ったまま、あれこれ首を傾げていると、改まった調子で百日紅氏が訊ねてきた。
「夢を……夢を見ませんでしたか?」
「夢?」
「寝言言ってらっしゃいましたよ。舐めるなとか、くすぐったいとか」
「え? あ……」
ぽん、と脳裡に浮かぶ、ふわふわむくむくの仔犬。なんか、俺、そいつらと遊んでた、ような……? やたらと元気で、人懐っこい、二匹の……。
「……双子の、仔犬」
思わず洩らした言葉に、百日紅氏はなにやら納得したみたいだった。
「そうですか……よほど気に入られたみたいですね」
「え? あの、俺?」
思わず、混乱。誰に? 誰が?
「当家の、狛犬ですよ。あなた、ここにいる狛犬に好かれているんです。この場所に招かれたことといい、夢に現れたことといい──こういう場合、下手すると三日くらい目が覚めなかったりするんですが、すぐ目が覚めて良かったですね」
もしかしたら明日あたり、何か犬に関係するお仕事、されるんじゃないですか? 百日紅氏はそう訊ねてきた。
「あれ、何で分かるんですか? 明日はグレートデンの伝さんとマメ芝の茶々丸くんの朝夕の散歩に……」
「ああ、やっぱり。帰りの電車のこともありますし、だから五分で返してくれたんでしょうね。当家の狛犬は、よその犬のことも大好きなんだそうですよ」
狛犬だけにねぇ。そう言って、百日紅氏は微笑んだ。
「いぬ……犬、ですか……」
はぁ、と俺は、相槌なんだか溜息なんだか自分でも分からない、何とも気の抜けた声を吐き出していた。
「お、いや、私も、犬は好きですが。犬にも好かれやすい方ですが、狛犬ですか……」
普通の犬に好かれるのと、狛犬に好かれるのでは、何だかこう、うれしさに隔たりがあるというか、どっちかっていうと迷惑っていうか……だってさ。普通の犬は、道を間違わせて目的地と全然違う場所に導いたり、いきなり眠らせたりしないだろ、普通。
だけど。
「まあ、いいですけどね」
大して実害無いし。
そう答えた俺の顔を、まじまじと見つめていた百日紅氏は、いきなり笑いだした。
「面白い人ですねぇ」
「は?」
「慈恩堂さんは、あなたのことを<天然>だとおっしゃってましたが、本当に天然なんですねぇ」
「……」
慈恩堂店主め。人を天然マグロとか天然ウナギみたいに……。
「それに比べて、私の愚弟は──」
楽しそうに笑っていたはずの百日紅氏の声に、微かな湿り気が混じる。はっ、と顔を上げると、彼はいつの間にか片手で目の辺りを覆っていた。
「──末の弟に狛犬の姿が見えなくなったのは、成人したからではなく、そういう何か大切なものを、失ってしまったからかもしれませんね」
──そうでもなければ、子供の頃、あんなに大好きだった狛犬を、誰とも分からない相手に売り飛ばそうなんて考えもしなかったでしょうから。
呟くようにそう言った百日紅氏が本当に辛そうで、俺はどう言葉を掛けていいのかわからなくなってしまった。
「あの……」
「はい」
「<アルファ>と<オメガ>は、弟さんのこと、怒ってますか?」
訊ねてしまってから、俺は「しまった!」と内心で身悶えていた。
聞くにこと欠いて、俺ってやつは! 傷口に塩を塗るようなことを……! 百日紅氏は、末の弟さんのことを本当に案じているようなのに……。
「怒ってはいますが、見捨てられてはいないようです」
怒ってはいるけど、見捨ててはいない? 双子の狛犬が、末の弟さんのことを?
「え? それは一体?」
どういうことですか?
「兄の方の狛犬、<アルファ>が無事当家に戻って三日後のことだったと思います。末の弟が、久々に姿を消しまして」
「え、それは……弟さんが手引きしてしまったという、怪しい骨董屋の手の者に拉致されたとか、そういうことではないですよね?」
俺は怖くなった。実家が資産家というだけで、妙な奴らに狙われる場合もあると、そんなことは素人でも想像がつく。
「いえいえ」
百日紅氏は首を振った。
「盛り場で遊び歩いていたところを捕獲して、この家で謹慎させておりました。ですから、ご心配いただいたようなことはありません」
「それは……良かったです……」
良かったけどさ。<遊び歩いていたところを捕獲>って、さらっと流す百日紅氏がちょっと怖い、ような気がするぞ。俺なんかには分からないけど、お金持ちの家って色々あるんだろうな、きっと。
五月のあの日。店主の真久部さんに頼まれて、慈恩堂で店番してたあの時。
抗いがたい睡魔に負けた俺の、夢の中に出てきたあの子たちは、やっぱりこの百日紅家の神棚(というか、これだけ立派だと、屋敷内神社といっていいんじゃないだろうか)の狛犬の化身だったのかな。……そうなんだろうなぁ。
──ぼく、まくべのみせもおじさんもきにいったよ。おじさんのにおい、ちゃんとおぼえたから、また兄ちゃんとあそびにくるね
あの時と同じ幼い子供の声を、もう一度聞いたような気がした。
ああ、そうだった。あの子たちにお菓子あげたかったな。店の留守番を引き受けた時には、いつも店主がこれでもかってくらい菓子をいっぱい用意してくれてたから。双子はすぐ消えてしまったから、果たせなかったけれども。
いや、あれは夢だったんだっけ。だけど、とてもリアルだったから、もしかしたら現実だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺はすっと誘われるように<アルファ>の頭を撫で、また、<オメガ>の頭を撫でていた。どこかから、子供のくすぐったそうな笑いが聞こえてくるような気がした。
「……ん……──さん……」
ん? んー? ふかふかの仔犬、可愛いなぁ。
「……い……ょぶ……か? ……さん……」
ふふ、二匹とも固太りして。鼻もつやつや。よしよし、健康状態は大変よろしい。って、おい。お前たち、重いぞ。飛びつくな、かじるな。ちっとも痛くないけど、ダメ!
「……──さ……ん!」
こらこら、顔舐めるなって。
「──さん!」
「んー、もう、舐めるなってば、くすぐったいだろ……って、あれ?」
「大丈夫ですか?」
ぱちっと音がするほどの勢いで目を開けた。開けた、ということは、それまで目を閉じてたってことだ。目を開けた先には、百日紅氏の少し青ざめた顔があった。
「どうしたんですか、百日紅さん。顔色が良くないんじゃ……」
そこまで口にして、おかしなことに気づいた。
俺、寝てる? 畳の上に寝そべってる? 何で?
目をぱちくりさせていると、百日紅氏がホッと息をつくのが聞こえた。
「良かった……目を覚まさないのかと思いましたよ」
「あの……俺、眠ってました?」
百日紅氏が無言で頷く。全然そんな感覚はなかったけど、俺はいつの間にか眠っていたらしい。
「時間にして、そうですね、五分くらいでしょうか。狛犬たちの頭を撫でてらっしゃるな、と思ったら、急にその場にくずおれて……」
「……五分、ですか」
俺は上半身を起こしてみた。別に、どこもなんともない。軽く頭を振ってみたが、眩暈がするわけでもなかった。
「全然記憶がありません……どうしたんだろ……」
もしや、脳梗塞とか脳溢血とかクモ膜下出血とか? でも、呂律が回らないわけじゃないし、どっか痺れてるわけでもないし、むしろ、気分爽快?
足を投げ出して座ったまま、あれこれ首を傾げていると、改まった調子で百日紅氏が訊ねてきた。
「夢を……夢を見ませんでしたか?」
「夢?」
「寝言言ってらっしゃいましたよ。舐めるなとか、くすぐったいとか」
「え? あ……」
ぽん、と脳裡に浮かぶ、ふわふわむくむくの仔犬。なんか、俺、そいつらと遊んでた、ような……? やたらと元気で、人懐っこい、二匹の……。
「……双子の、仔犬」
思わず洩らした言葉に、百日紅氏はなにやら納得したみたいだった。
「そうですか……よほど気に入られたみたいですね」
「え? あの、俺?」
思わず、混乱。誰に? 誰が?
「当家の、狛犬ですよ。あなた、ここにいる狛犬に好かれているんです。この場所に招かれたことといい、夢に現れたことといい──こういう場合、下手すると三日くらい目が覚めなかったりするんですが、すぐ目が覚めて良かったですね」
もしかしたら明日あたり、何か犬に関係するお仕事、されるんじゃないですか? 百日紅氏はそう訊ねてきた。
「あれ、何で分かるんですか? 明日はグレートデンの伝さんとマメ芝の茶々丸くんの朝夕の散歩に……」
「ああ、やっぱり。帰りの電車のこともありますし、だから五分で返してくれたんでしょうね。当家の狛犬は、よその犬のことも大好きなんだそうですよ」
狛犬だけにねぇ。そう言って、百日紅氏は微笑んだ。
「いぬ……犬、ですか……」
はぁ、と俺は、相槌なんだか溜息なんだか自分でも分からない、何とも気の抜けた声を吐き出していた。
「お、いや、私も、犬は好きですが。犬にも好かれやすい方ですが、狛犬ですか……」
普通の犬に好かれるのと、狛犬に好かれるのでは、何だかこう、うれしさに隔たりがあるというか、どっちかっていうと迷惑っていうか……だってさ。普通の犬は、道を間違わせて目的地と全然違う場所に導いたり、いきなり眠らせたりしないだろ、普通。
だけど。
「まあ、いいですけどね」
大して実害無いし。
そう答えた俺の顔を、まじまじと見つめていた百日紅氏は、いきなり笑いだした。
「面白い人ですねぇ」
「は?」
「慈恩堂さんは、あなたのことを<天然>だとおっしゃってましたが、本当に天然なんですねぇ」
「……」
慈恩堂店主め。人を天然マグロとか天然ウナギみたいに……。
「それに比べて、私の愚弟は──」
楽しそうに笑っていたはずの百日紅氏の声に、微かな湿り気が混じる。はっ、と顔を上げると、彼はいつの間にか片手で目の辺りを覆っていた。
「──末の弟に狛犬の姿が見えなくなったのは、成人したからではなく、そういう何か大切なものを、失ってしまったからかもしれませんね」
──そうでもなければ、子供の頃、あんなに大好きだった狛犬を、誰とも分からない相手に売り飛ばそうなんて考えもしなかったでしょうから。
呟くようにそう言った百日紅氏が本当に辛そうで、俺はどう言葉を掛けていいのかわからなくなってしまった。
「あの……」
「はい」
「<アルファ>と<オメガ>は、弟さんのこと、怒ってますか?」
訊ねてしまってから、俺は「しまった!」と内心で身悶えていた。
聞くにこと欠いて、俺ってやつは! 傷口に塩を塗るようなことを……! 百日紅氏は、末の弟さんのことを本当に案じているようなのに……。
「怒ってはいますが、見捨てられてはいないようです」
怒ってはいるけど、見捨ててはいない? 双子の狛犬が、末の弟さんのことを?
「え? それは一体?」
どういうことですか?
「兄の方の狛犬、<アルファ>が無事当家に戻って三日後のことだったと思います。末の弟が、久々に姿を消しまして」
「え、それは……弟さんが手引きしてしまったという、怪しい骨董屋の手の者に拉致されたとか、そういうことではないですよね?」
俺は怖くなった。実家が資産家というだけで、妙な奴らに狙われる場合もあると、そんなことは素人でも想像がつく。
「いえいえ」
百日紅氏は首を振った。
「盛り場で遊び歩いていたところを捕獲して、この家で謹慎させておりました。ですから、ご心配いただいたようなことはありません」
「それは……良かったです……」
良かったけどさ。<遊び歩いていたところを捕獲>って、さらっと流す百日紅氏がちょっと怖い、ような気がするぞ。俺なんかには分からないけど、お金持ちの家って色々あるんだろうな、きっと。