第110話 鳴神月の呪物 1

文字数 2,227文字

六月は鳴神月ともいうけれど、あれは本物の雷ではない。

階下から聞こえた一瞬の轟音を、真久部は無視することにした。どうせ、自分以外には聞こえないのだ。

この幻の雷鳴は、毎年この季節になると「外に出せ」と騒ぎ出す困った掛け軸の仕業である。元禄期のもので、無名の絵師が描いたとされる絵が表装されているのだ。

雷の落ちた後の焼け焦げた木の煤を、墨に混ぜて描いたものだと伝わっているが、その墨で何のつもりで禿山を描いたのか。せめて赤松の林でも描けばよいものを、そうすれば絵の中とはいえ松茸の一本も生えたかもしれないのに。それとも、何か禅問答的な意味でもあるのだろうか。

描いた方の意図は分からないが、この絵をわざわざ掛け軸に仕立てさせた方の気持ちも分からない、と真久部は思う。それ以上に、どうしてこんなものが何百年も捨てられもせず、朽ちもせず、今に残っているのか、それが一番分からないかもしれない。この掛け軸がしぶといのか、それとも強運なのか。

ともあれ、アレを箱から出してやるのは明日にしよう、と真久部は欠伸をする。大声を上げたら外に出してもらえるなどと覚えさせたら、後が面倒で仕様が無いし、売るのも難しくなる。既に五回売れて、四回戻ってきているのだ。

それにしても、宵っ張りの身に朝は辛い。とはいえそろそろ十時、店を開ける準備をせねばなるまいと、寝巻きを脱いだ真久部は襦袢を着、衣桁に掛けておいた単衣を羽織った。最初こそ、古美術骨董品店の主人らしくと選んだ和装だが、慣れてしまえば洋服より楽だ。

今日は単衣だと冷える、と思いながら、真久部は店のシャッターを開ける。午前の白い光が店舗入り口ドアを通して中に踊りこむと、それまで蠢いていた気配たちが一瞬で引くのが分かった。

空腹を堪えつつ、大物に簡単にハタキを掛け、店の通路と店舗前を箒で掃く。ドア硝子を拭き上げて、営業中の札を出して店内に戻ると、古い時計の音が迎えてくれる。

 
 ボーン ボーン ボーン……


大小いくつかあるうちの、ひとつにだけ真久部は螺子を巻いた。毎日順番に巻いていくのだが、催促するヤツはその日に巻いてやらないことにしている。巻かなくても、どうせ鳴るのだし。

勝手気ままに時を作る時計は、たまに別の世界の時を刻んでいる。それも面白いと真久部は思っているが、文字盤が妙に歪んだり、存在を危うくして消えたり現れたりされても困るので、戒めのために螺子を巻くことがある。役割を忘れてボレロの小太鼓のリズムを刻むようなお調子者には、現役の置時計を隣に置いてやる。隣で正確な時を刻まれると、さすがに気まずくなるらしいのだ。

丸い豊かな腹を光らせて主張してくる木製の布袋像を無視し、真久部は店舗の奥にある台所に入った。食べるのが面倒になってきたので、今日はもう昼食まで我慢しようと思ったが、空っぽの胃が悲鳴を上げる。──腹の虫を鳴らすような店主のいる骨董屋で、落ち着いて品物を選ぼうとは思う人はいないよ、とかつて伯父に言われたことを思い出し、真久部は少し不機嫌になった。

食パンにマヨネーズを塗って食べることにする。焼くのが面倒で、かといって冷蔵庫から出したての硬いバターは使えないからだ。六枚切りを二枚重ねてまとめてしまえば、お手軽なマヨネーズ・サンドである。

真久部には、気が向けば焼き菓子など作る小まめさはあるが、同じく気が向かなければその辺のもので適当に済ませてしまうようなズボラさもあった。まだまだ元気な母などが見たら叱られるのだが、気ままな独り暮らし、ズボラを極めるのもいいかと思っていたりする。

ぱさぱさのパンをよく噛まずに平らげ、水道からコップに汲んだ水を飲み干す。腹が落ち着き、真久部はホッと息を吐いた。

帳場に戻ると、前日に洗って盆に伏せ、布巾を被せて置いてあった茶道具で茶を淹れた。電気ポットには、いつも前日から新しい水を入れておくことにしている。宵っ張りだからこそ、真久部は翌日の朝のための、仕込みの手間は惜しまない。

在庫管理用のPCを立ち上げ、茶を啜りながらぼーっと画面を見ていると、店の隅のほうで微かな水音がした。

 
 ぴちゃん……


ああ、六月ともなればもう夏だなぁ、とぼんやり思いながら真久部は顔を上げた。視界の端で赤い金魚が尾ひれを翻すのが見える。その辺りの台に置いてある手鏡から跳ね出したようだ。


 ひらりひらひら ひらひらすいすい


水槽を泳ぐように、金魚は店の中を泳ぎまわる。


 ひらひらすーい ひらひらすいすい


わざと視線を外し、真久部が気づかないふりをしていると、新しく仕入れた硝子の水差しの中に入ったり、曇った鏡台の鏡の中で跳ねたりしている。ふ、と見えなくなったと思ったら、水差しの隣に置いてある銀のスプーンから出て来て、また泳ぎ出した。

あれは、いつからかこの店に棲んでいる金魚だ。当然ながら実体ではない。夏になると現れて、時折り思い出したようにひらひらと店の中を泳ぐ。何がしたいのか分からないが、特に害も無いので真久部は放置している。視線を合わせると消えてしまうが、つまりはいつでも消せるということなので、問題は無い。

久しぶりの金魚の舞いを眼の端で楽しんでいると、カランコロンとドアベルが鳴った。

「こんにちは~!」

あの声は何でも屋さんだ。真久部は、自分の顔が自然に微笑むのに気づく。
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