第263話 蔵整理初日、池の金魚を眺め思う

文字数 2,371文字









久しぶりの水無瀬家の庭で、俺はまた池を眺めていた。端にはやっぱり薄く氷が張っていて、冷たい水底(みなそこ)に眠る金魚は、沈めたオブジェのようにじっとしてる。

冬でも緑の葉を繁らせる橘の木が水面(みのも)を覆うように枝を伸べ、隙間から射す弱い太陽の光がきらきらとさざ波を躍らせている。捩れた根の影は洞のようになっていて、のぞき込むとそこには石の祠がある。本当にささやかなものだけど、それが水無瀬家の屋敷神様だ。

今日は本格的な蔵整理の初日なので、一応ご挨拶はしておいた。

これから仕事を始めようっていうのに、呑気にぼーっとしてるようだけど、ちゃんと理由はある。撮影用機材を待ってるんだよ。水無瀬さん、真久部さんに相談してライトを幾つか買ったんだって。蔵の中はどうしても暗いからな……って、シャレじゃないぞ?

ひとつひとつ撮影する形で収蔵物目録を作成してもらことになったんだし、せっかくだからちゃんとしようと思った、って笑ってた。俺も一応作業灯を持ってきたんだけど、話を聞くとそっちのほうが断然性能が良さそうだし、照明多いほうが影も出来なくていいしなぁ。──もうすぐ届くから、家の中でお茶でも飲みながら待っててもらえばって言ってもらったんだけど、何となく池の金魚が見たくなってここにいる。

大小いくつかの赤い影たち。動かないんだけど今にも動きそうに見えるから、つい見入ってしまう。

ふう。

白い息を吐きながら、しゃがんだ姿勢から立ち上がる。ぐっと腰を伸ばしながら振り返れば、例のうるさ型の俺様的な蔵。あんなに騒いだことがまるで嘘のように静まり返っている。──朝日につやつやと、母屋のそれより若干ぬめるように輝く屋根瓦をちょっと不気味に思いながらも、俺はあの日真久部さんから聞いた話を思い返していた。

叔父さんとお父さんの霊的な立場の交換は、本当に意味が大ありだった。残された命の違いがたった二、三年程度だったのだとしても、その恩恵は計り知れない。一分でも一秒でも、時間が延びれば確かにそのぶん出来ることが増えるんだから。

それでも、ついにその時が来てこの世を去らなければならなくなった瞬間は、遺していく家族のことを思えば、きっと水無瀬さんのお父さんももっと生きたかっただろう……としんみりした俺だけど、実はお父さん、なんとその後二十年ほども生きたんだって。

びっくりしたと同時に、ホッとした。

真久部さんによると、叔父さんが元の自分の寿命と、報いにより縮んだ後の残り年数を読み間違ってたとか、家神様がさらに力を貸してくれたとか、そういうことじゃないんだって。

家神様は、この世に顕現し力を揮うという無茶をした後に、“水無瀬紘一”と“水無瀬紘二”、二人の人間の魂のラベルを貼り換えたことで、持っていたほとんどの力を使い果たしたはずだと真久部さんは言っていた。──神と呼ばれる存在であってもさすがに限度はあり、それ以上理を曲げることも出来なかっただろうとも。

だから、弟である水無瀬さんの叔父さんと霊的な立場が入れ替わったのだとしても、お父さんの命は本当なら蔵の事件から数えて、長くてもだいたい五、六年ほどで尽きていたんじゃないかって。でも結果的にそうならなかったのは、「皿の金魚が無事だったからじゃないかなぁ?」ってことなんだ。

家神様により、猫との睨み合いから切り離すようにして池に逃がされた金魚は、無傷で済んだ──つまり、力を失っていなかった。それを精一杯使って、金魚は“水無瀬紘二”の命を繋いだんじゃないか……真久部さんはそう考えているらしい。つまり叔父さんの甥が、息子(・・)が、無事に成人して独り立ちできるまで。

常に叔父さんと共にあった皿の金魚は、叔父さんが出征して家からいなくなった後も、水無瀬さんを護るために動いてくれていたということらしいんだ。水無瀬家の家宝ということで、元からその血筋の人たちを守護してはいたけど、血筋の中でも、視えて意思を通じることのできた人との繋がりはまた格別らしい。だから、その意思を強く継いでくれたんじゃないかって。

敗戦直後の混乱期、水無瀬さんのお父さんのような壮健な成人男性の存在は大きかったはずだ。何とか数年持ち堪えて……それだけでも僥倖だっただろうけど、その数年で亡くなってしまった場合、国中がまだまだ落ち着かない中で、幼い子を抱えた年寄りと女手だけでは水無瀬の家を守り切るのは困難だっただろうことは容易に想像できる。

幼かった水無瀬さんのために、お祖父さんやお母さんのために、お父さんに生きていてもらうのがやっぱり一番良い。だから、金魚はすっごく頑張ったんだろうって真久部さんはほろ苦く笑ってた。

霊的に兄と入れ替わった叔父さんの方はといえば、内地でのしばらくの訓練の後南方に送られたらしく、一度だけ葉書が届いたという。その後マラリアに罹り、後方に送られるため島から島へと移動する際、乗っていた小型輸送艇が米軍の爆撃を受け、他の戦友たちと共に海に散ったという。──水無瀬さんのお父さんの元の寿命は、本当に残り少なかったんだな……。

あの蔵鳴りの夜、何があったのかを水無瀬さんのお父さんが知ったのは、叔父さんが出征してから三日目のことだったという。気を失ったまま、なかなか目覚めずに心配したと、お祖父さんの覚書に書かれていたんだそうだ。

水無瀬さんのお父さんは、寿命のことまでは知らない。だから単純に、弟は自分の身代わりに出征して行ったのだと考えただろう、というのが真久部さんの推測だ。弟が召集令状を持参して軍に出頭し受理されたのであれば、後からそれは人違いだと訴えても、誰も幸せにはならない結果になってしまうだろうことは分かっていたはずだとも。

あの夜の出来事の真実と、弟の不可解な言葉の意味を自分の父から聞いたお父さんは、すごく怒ったらしい。そして、泣いたらしい。
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