第254話 昔話1 紘一と紘二

文字数 2,305文字

「<紘>の字は、彼らの父、紘之輔から一文字取ったもので、生まれた順に一、二と名付けられたようなんですが」

「はあ……」

話が見えなくて、俺はつい曖昧な返事をしてしまう。けど、お構いなしに真久部さんは先を続ける。

「実は水無瀬さんの叔父さんはねぇ、ひとつだけ盗んだものがあるんだ」

「へ?」

ここに来ていきなりそんなこと言うから、思わず気の抜けたようなおかしな声が出た。

「ぬ、盗んだって、何を?」

あれ? だけど、蔵が騒いだのは金魚(・・)が逃げたからであって、叔父さんが何かを持ち出したわけではなくて……あれれ? 訳が分からなくなってきた。

「赤紙を」

そう言って、真久部さんは俺の理解を待つように言葉を切る。あかがみ……? あ。

「それって、召集令状、のことですよね……?」

「そう。兄の紘一さん宛てに来た赤紙を、盗んだ(・・・)んだよ紘二さんは」

「……」

「病弱であるが故に、徴兵検査で兵役免除となった紘二さんに赤紙は来ない。でも、乙種合格だった紘一さんには来てしまった。それを盗んだ」

「何でそんなこと──隠したとかじゃなくて……?」

恐る恐るたずねてみると、真久部さんは静かに首を振る。俺は思わずその凪いだ眼を見つめてしまった。

「……」

たった紙切れ一枚といえど、届いてしまえば赤紙からは逃れようがない──。戦中戦後を舞台にした昔のドラマで、そんな場面を見たことあるだけだけど。

もしも息子を、夫を、兄弟を、父を行かせたくなくて、家族の誰かが捨てたり隠したりしたとしても、何にもならない。下手をすれば徴兵逃れと思われて、一家まとめて悲惨なことになってしまう。抗うことは無駄で無意味で、だから結局、召集された本人が行くしかない。

そんなモノを、盗むような人間は普通はいないと思うんだけど……。疑問が顔に出てたんだろう、真久部さんは答えてくれた。

「御祖父様──紘之輔さんの日記によると、この事件があったのは、紘一さんが召集先の駐屯地に出頭するため、翌朝には家を出るという日の夜のことだったとか。高熱が続き、明日をも知れない状態の我が子を置いていくことになるんです、紘一さんもさぞ心残りだったでしょうが──」







──出征前夜。父と、これが最後になるかもしれない酒を飲んでいた。

私に赤紙が届いてから、父は無口になり、表面上は気丈にふるまってくれている妻も、陰で泣いているのは知っている。残していく家族のことは心配だが、何よりも心残りなのは、病弱な我が子だ。

ここ数日は酷い熱で、もうこれまでかと思うことも何度かあった。しかし不思議なことに、今日午後になってからふっと熱が下がった。さっき寝顔を見たときは、だいぶ息も穏やかになっていて、妻と目を見かわし泣き笑いしながら、ようやっと胸をなでおろした。もしや、出征する父の憂いにならないようにしてくれたのだろうか。嗚呼、心配は尽きない。それでも、後に残す者に託すしかないのだろう。

虫の声を聞きながら、二人黙って飲んでいると、我が子と前後するように病の床に就いていたはずの弟が、顔を出した。

一歳下の弟は、生まれつき蒲柳(ほりゅう)(しつ)で、二十歳まで生きられるかと皆に心配されたものだった。ありがたいことに何とか成人を迎え、今この年まで無事でいる。相変わらず虚弱ではあるものの、どこか柳のように(つよ)いところがある。その甥である我が子は、どうやら叔父と似たような体質のようだ。だから、大事にしていれば同じように成長してくれると信じたい。

弟は何も言わず、ただ黙って俺に酒を注いでくれる。その手は細かく震えていた。努めて明るく、気持ちはうれしいが無理せず寝ておけ、と言うと、寂しそうに微笑んで部屋を辞した。

灯火管制も意味をなさないほど、月の明るい夜。ただ虫の音だけが賑やかだ。

畳に落ちた月光に目をやったまま、紘二のやつが、もう少し丈夫ならと、父は呟いた。

弟がもっと健康な身であれば、私も安心して後を任せられるかもしれない。しかし、もしそうであったなら、弟にはもっと早く赤紙が来たかもしれない。結局息子二人を兵隊に取られ、父は二人分泣かなければならなかったかもしれないのだから、私一人で済んで良かったと思っている。

大本営は景気の良いことばかり言っているが、この戦争にはもはや勝ち目は無いと私は考えている。

戦は負け時が肝心だ。下手な負け方をすれば、この国は精神的にも物質的にも米英に蹂躙されてしまう。

我が国は物資が足りなくて戦争を始め、物資が足りなくて戦争に負ける。だが、その精神が米英に劣るとは思わない。

もし負けても。我が国が世界から軽んじられることのないように。生き残った者たちと、後の世代が誇りを持って生きられるように。

私は戦うつもりだ。死ぬのは怖い。だが、愛しい妻と子、老いた父や身体の弱い弟を護るためと思えば逃げるわけにはいかない。先に出征して行った使用人の中にも、既に戦死者が出ている。きっと勇敢に戦って散ったんだろう。そこに私も往かなければならない。

この夜が明ければ──

そう思いに耽りながら、空になった父の盃に酒を注ごうとした時。

何度か聞いたことのある、あの異様な家鳴りの音がした。

ああ、あいつか……。そう呟いて、ふらつきながらも父が立とうとする。私はぎりっと奥歯を噛んだ。どうやら、またあの手癖の悪い奴が蔵の物を盗み出そうとしたようだ。あの質の悪さは、もはや修正できるものではないだろう。いくら恩ある人に頼まれたからとはいえ、父は何故、何度も彼奴を家に預かるのだろう。身体は健康であるのに、金の力で丁種の判を押させたと噂されるような者を。

私は父を置いて蔵に走った。故郷の家で過ごす最後の夜を汚された気がして、腹が立って仕方がなかった。
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