第306話 藤花の季節 1
文字数 2,302文字
ふわふわ、ふわふわ。頭がふわふわ。
温かい湯に浸かり、ふっと目を閉じてしまったときのような、抗いがたい心地よさ。眠るつもりじゃないのに、眠っちゃいけないのに……ゆめとうつつが遠くなったり近くなったり──。
──今の時季になると、山中 むらさきで、それが藤で。ぜんぶ藤の花で
藤の花……?
──ああ……他の季節だと、気配も見えないのにね。確かに、山を覆う勢いだ
──あれは蔓だから、巻きついた木を締めて、締め殺して立ち上がって
──ほう
──根も伸びる、うねくりあってさ、好き勝手にどこまでも這うように伸びて
──ほほう。
──どれがどの木ともわからない。まるでひと元の大樹のようだ
──そこには藤しか生えていないのかい?
──ああ。蔓も根も絡まり合って、締めあって、その伸びようがまるで掴みあいみたいで
──それではさぞかし歩きにくかろう
──生者の足を踏み入れるようなところじゃないよ
──だろうなぁ
え……なに? 何の話……?
──このあいだ、鹿が迷い込んで来てね
──ほう、鹿が
──この時期の葉も花も、柔らかくて美味いらしくて
──ほうほう
──進めば進むほど、蔓と根に四方八方から足を取られ、角を絡め取られて
──それは恐ろしい
──頭を振って蔓を千切っても、撓ってた別の蔓が突き出てくる。立ち往生さ
──なんと、なんと
──何も殺そうとはしてないんだ。勝手に絡まって死んでしまう
……どこかで、水のしたたる音がする。明るい緑に染められて、ひんやりと湿った山の空気。
四月も末、八重桜も葉桜に変わる頃。人里から遠く離れたそこは一面むらさきに見えて、何か良い匂いが……ああ、あれは藤の花じゃないか。見渡す限り藤で、藤の花で、世界は藤の花で出来ているかのようで……。
きれいだなぁ……。桃源郷っていうのかな? いや、藤 源郷?
あれ? 大きな鹿がやってきた。角が立派だから雄の鹿だ。むしむしと藤の若い葉や花を食べて……ああ、本当に美味そうだ。美味いからもっと食べたくて、どんどん奥へ……。
ふわり、と藤の香りが包み込んでくる。
あ、角が藤の蔓に引っかかった。鬱陶しげに鹿は頭を振る。蔓が少し緩む。目の前に藤の花房、鹿はまたそれを食む。あれ、今度は根に前足を取られた。進むことでそれをほどこうとするけど、角がまた蔓に引っかかる。他の足にも絡む。根も絡む。
藤の芳香が濃くなる。
暴れるけれど、新たに蔓を引っかけるばかりで。角も四本の足も節くれだった蔓や根に絡まれてがんじがらめ。苦し気に口を開けるけど、鳴き声は聞こえない。鹿が身動きするたび、藤の花房が揺れて。揺れて、鹿の体に藤の花が被さって覆って、覆われて、覆い尽くされて。
後には、ただ噎せかえるほどの芳香が漂うばかり──。
「……っ!」
荒い息を吐きながら、俺は必死で目を開けた。さっきまでそこに広がっていた、あの紫に染まった世界はどこへ……?
目の前には、磨き込まれた古い和机、これは古道具屋慈恩堂の帳場 。その天板に突っ伏して、俺は居眠りしていたらしい。
そうと分かっても、夢の余韻が俺を苛む。藤の蔓が、花房が、ぎっしりと身体に絡みついて、囚われて身動きできずにいると、ひんやりとしたあの紫色の花房が、俺の口や鼻を塞いできて、吐息すら押し込められて──。
「おや、起きたのかい、何でも屋さん」
のんびりとした声に呼ばれて、俺は飛び上がった、ら、天板の裏に嫌というほど膝をぶつけてしまった。
「いってぇ……!」
思わず呻くと、楽しそうな笑い声が聞こえる。
「ああ、気をつけないと。怪我でもしたら大変だ」
大丈夫かい、と心にもない言葉とともに、この店 の店主よりも数段胡散臭い笑みを向けてくるのは、真っ白い髪に髭、真っ白い眉をした、怪しい仙人みたいな──。
「真久部さん……」
というか、真久部の伯父さん。
「いつから、いらしてたんですか?!」
びっくりして、挨拶もすっ飛ばしてついそんなことを口走ってしまった。本日の何でも屋お仕事メニュー、<店番>依頼にあたり、俺、あなたの甥っ子である店主の真久部さんから聞いてないよ、あなたが来るなんて。
「何でも屋さんが居眠りしてるあいだ、かなぁ?」
にやにやと、揶揄うような笑み。うっ、それを言われると……。
「すみません、つい、うとうとしちゃって……」
いくら客が来ないからといっても、店番失格だよなぁ。店主の真久部さんは「気にしなくていいですよ」と言ってくれるけど、いやしくも一人前の社会人、プロの何でも屋として、これはいただけない。──でも、ここの店番してると、いつもどうしてか眠くなって困るんだ。だいたいは何とか堪えてるんだけど、意識しないうちに眠ってしまっていることも……。
「いいんだよ。この店では、何でも屋さんはそれで。あの子もそう言ってるだろう?」
「ええ、まあ……」
だからといって、はい、そうですかと眠るわけにもいかないよ、まともな神経してたらさ。なのに俺、何で居眠りを──。
「前にあの子がバイトを雇ったときには、誰もいないし客も来ないからと、堂々と居眠りしていたようだがねぇ」
「そ、そうなんですか……?」
タチ悪いとは思うけど、店番さえいれば店を開けてはいられるから、そんなんでも良かったのかな? 真久部さん。確かにここ は滅多に客が来ないけど、もし来たらさすがに接客くらいはするだろうから、店主の留守中だけなら勤まらなくもなかったのかも……。
「だけどそのバイト、眠 り の 中 で 何をしたのやら、道具たちに嫌われたらしくてねぇ、さんざん怖い思いをさせられて、半日も経たずに逃げ出して行方知れずだよ」
行方知れずといっても、連絡が取れなくなったというだけのことだが、とにたりと笑う。
温かい湯に浸かり、ふっと目を閉じてしまったときのような、抗いがたい心地よさ。眠るつもりじゃないのに、眠っちゃいけないのに……ゆめとうつつが遠くなったり近くなったり──。
──今の時季になると、
藤の花……?
──ああ……他の季節だと、気配も見えないのにね。確かに、山を覆う勢いだ
──あれは蔓だから、巻きついた木を締めて、締め殺して立ち上がって
──ほう
──根も伸びる、うねくりあってさ、好き勝手にどこまでも這うように伸びて
──ほほう。
──どれがどの木ともわからない。まるでひと元の大樹のようだ
──そこには藤しか生えていないのかい?
──ああ。蔓も根も絡まり合って、締めあって、その伸びようがまるで掴みあいみたいで
──それではさぞかし歩きにくかろう
──生者の足を踏み入れるようなところじゃないよ
──だろうなぁ
え……なに? 何の話……?
──このあいだ、鹿が迷い込んで来てね
──ほう、鹿が
──この時期の葉も花も、柔らかくて美味いらしくて
──ほうほう
──進めば進むほど、蔓と根に四方八方から足を取られ、角を絡め取られて
──それは恐ろしい
──頭を振って蔓を千切っても、撓ってた別の蔓が突き出てくる。立ち往生さ
──なんと、なんと
──何も殺そうとはしてないんだ。勝手に絡まって死んでしまう
……どこかで、水のしたたる音がする。明るい緑に染められて、ひんやりと湿った山の空気。
四月も末、八重桜も葉桜に変わる頃。人里から遠く離れたそこは一面むらさきに見えて、何か良い匂いが……ああ、あれは藤の花じゃないか。見渡す限り藤で、藤の花で、世界は藤の花で出来ているかのようで……。
きれいだなぁ……。桃源郷っていうのかな? いや、
あれ? 大きな鹿がやってきた。角が立派だから雄の鹿だ。むしむしと藤の若い葉や花を食べて……ああ、本当に美味そうだ。美味いからもっと食べたくて、どんどん奥へ……。
ふわり、と藤の香りが包み込んでくる。
あ、角が藤の蔓に引っかかった。鬱陶しげに鹿は頭を振る。蔓が少し緩む。目の前に藤の花房、鹿はまたそれを食む。あれ、今度は根に前足を取られた。進むことでそれをほどこうとするけど、角がまた蔓に引っかかる。他の足にも絡む。根も絡む。
藤の芳香が濃くなる。
暴れるけれど、新たに蔓を引っかけるばかりで。角も四本の足も節くれだった蔓や根に絡まれてがんじがらめ。苦し気に口を開けるけど、鳴き声は聞こえない。鹿が身動きするたび、藤の花房が揺れて。揺れて、鹿の体に藤の花が被さって覆って、覆われて、覆い尽くされて。
後には、ただ噎せかえるほどの芳香が漂うばかり──。
「……っ!」
荒い息を吐きながら、俺は必死で目を開けた。さっきまでそこに広がっていた、あの紫に染まった世界はどこへ……?
目の前には、磨き込まれた古い和机、これは古道具屋慈恩堂の
そうと分かっても、夢の余韻が俺を苛む。藤の蔓が、花房が、ぎっしりと身体に絡みついて、囚われて身動きできずにいると、ひんやりとしたあの紫色の花房が、俺の口や鼻を塞いできて、吐息すら押し込められて──。
「おや、起きたのかい、何でも屋さん」
のんびりとした声に呼ばれて、俺は飛び上がった、ら、天板の裏に嫌というほど膝をぶつけてしまった。
「いってぇ……!」
思わず呻くと、楽しそうな笑い声が聞こえる。
「ああ、気をつけないと。怪我でもしたら大変だ」
大丈夫かい、と心にもない言葉とともに、この
「真久部さん……」
というか、真久部の伯父さん。
「いつから、いらしてたんですか?!」
びっくりして、挨拶もすっ飛ばしてついそんなことを口走ってしまった。本日の何でも屋お仕事メニュー、<店番>依頼にあたり、俺、あなたの甥っ子である店主の真久部さんから聞いてないよ、あなたが来るなんて。
「何でも屋さんが居眠りしてるあいだ、かなぁ?」
にやにやと、揶揄うような笑み。うっ、それを言われると……。
「すみません、つい、うとうとしちゃって……」
いくら客が来ないからといっても、店番失格だよなぁ。店主の真久部さんは「気にしなくていいですよ」と言ってくれるけど、いやしくも一人前の社会人、プロの何でも屋として、これはいただけない。──でも、ここの店番してると、いつもどうしてか眠くなって困るんだ。だいたいは何とか堪えてるんだけど、意識しないうちに眠ってしまっていることも……。
「いいんだよ。この店では、何でも屋さんはそれで。あの子もそう言ってるだろう?」
「ええ、まあ……」
だからといって、はい、そうですかと眠るわけにもいかないよ、まともな神経してたらさ。なのに俺、何で居眠りを──。
「前にあの子がバイトを雇ったときには、誰もいないし客も来ないからと、堂々と居眠りしていたようだがねぇ」
「そ、そうなんですか……?」
タチ悪いとは思うけど、店番さえいれば店を開けてはいられるから、そんなんでも良かったのかな? 真久部さん。確かに
「だけどそのバイト、
行方知れずといっても、連絡が取れなくなったというだけのことだが、とにたりと笑う。