第146話 たくさん遊べば 5
文字数 2,042文字
「……!」
おおう、背筋がざわざわと……。じかに響いたんでびっくりした。やっぱり慈恩堂は心臓に悪い店だなー、と思いながら、お客が来たならドアを開けようかと思ったんだけど。
──今日は自分でドアを開けられないお客は、店の中に入れなくてもいいですから。
真久部さんの言葉を思い出した。
「……」
コンコン
そうしている間も叩かれる。いや、俺がこんなとこ立ってるから開けられないんだよ、うん。すみません、開けますね、とふり返ろうとして……どうしてだろう、硝子ドアの向こう、店の外に、誰がいるのか確認しちゃいけない気がした。
コンコン
えーっと。とりあえず、ここからどかないと。そう思うのに、足が動かない。
コンコン
慈恩堂のドアは外開き。取っ手を握って、向こう側から引っ張れば……。
コンコン
声を掛けてくれたらいいのに。そうしたら動ける。
コンコン
いつも静かに騒がしい慈恩堂の店内が、どうしてかしんと静まり返っている。何かとうるさい古時計たちの音も、今はかすかにしか聞こえない。
コンコン
空気が重い。いつも店に入ったとたん目に入る、布袋様の太った腹も心なしか艶を失っているみたいだ。
コンコン
荷物持ってて開けられないとか? それなら手伝うけど、ドアの向こうの人は何で何も言わないんだろう。
コンコン コンコン
いつでもあっち側から開けられるドアのすぐ前に、背中を晒して立っているのは怖かった。内開きなら良かったのに、そうすれば体重を掛けて開かないようにできるのに。
コンコン コンコン コンコン
もう叩くのは止めてくれ。自分で開ければいいじゃないか。それが出来ないなら、何か言葉を……。
あけて 開けろ あけてよ
「……っ!」
心臓が飛び跳ねた。
あけてよ~ 開けて あけろ
声じゃない。声じゃない。だって遠すぎる。ごうごうと、遠くで渦巻く風の音に似てる。胸の奥の奥、底のほうでざわざわと、響くそれは海鳴りみたいだ。心の深いところにある普段意識しない場所が、脆い硝子になったようにぐずぐずと崩れかける。とても頼りなくて、とても寂しい──。
さびしい~ さみしい~
寂しい
「……」
寂しくて、俺の声も出ない。ああ、寂しい。何かからどこかからもぎ離され、さまよい出て、どこへ行ったらいいのかわからない。何にもない。どこにもない。自分の居る場所は、居てもいい場所はどこだ? いつも疎まれ追い払われて……。
寂しい 寂しい 寂しい
さびしい~ さみしいよ~
そのうちどこかへ散らされてしまう。嫌だ、嫌だ。さみしい寂しい。妻と娘と別れた俺、リストラされた俺、いらない俺。逃げ帰ろうにも、父のいる母のいる、あの暖かい家には帰れない。あの日、二人とも殺されてしまって──。
さみしい さみしい さびしい
あけて~ あけてあけて
さびしい あけろ 開けて あけてさみしい
そうだ、双子の弟ももういない──俺と同じ顔、同じ声の、殺されてしまった弟、俺の半身。何をせずとも意識しなくても繋がっていた糸が、断ち切れたあの瞬間。ああ、そうだ、もう名前を呼んでも……。
兄さん!
「あ……」
耳元で、弟が俺を呼ぶ声を聞いた気がした。
チックタックチックタック
チチッチチッチッ……
……チッ……チッ……
また古時計たちが好き勝手に時を刻んでる、ような気がする。
チッチチチ チッチチチ チッチ チッチチチ チッチチチ チチチチチチ
チッチッチッ チチチッチッ チッチッチッ チチチッチッ
機嫌が良さそうで何より。ちょっとうるさいような気もするけど、さっきみたいに静まり返っているよりはずっといい。
怪しい鯉の香炉、赤膚焼きの壺、浮世絵を貼り付けて仕立てられた枕屏風、ファイト一発な筋肉自慢の阿吽の仁王像、宝船に乗ってる七福神、貴石と銀で出来た梅の小枝、長い髭が引っ掛かりそうで近くを通るときは気を使う銅製の竜。怪しい仏像、神像たち。
いつもの慈恩堂だ。
俺はほっと息をつき、熱いお茶の入った湯飲み茶碗で指先を温めていた。足元の、帳場の掘り炬燵は暖かい。店の隅で何かの気配が息を潜めているような、そんな微妙な空気も感じなくはないが、どうってことない。さっきのアレに比べたら。
弟が俺を呼ぶ声を聞いた、そう思った瞬間。ドアの向こうの何かの気配が消え去った。硝子を叩く音もいつの間にか聞こえなくなっていて、俺はようやく動けるようになった。
それでもふり向いて、硝子ドアの向こうを見るにはなれなかったけど。
そのまま前を見て、ロボットみたいにぎくしゃく歩いて、ようよう帳場机の前に落ち着いた。そのとき耳に聞こえた古時計たちの自己主張の強い秒針の音に、どれだけ安心したかなんて──つけ上がらせそうな気がするから言わない。
おおう、背筋がざわざわと……。じかに響いたんでびっくりした。やっぱり慈恩堂は心臓に悪い店だなー、と思いながら、お客が来たならドアを開けようかと思ったんだけど。
──今日は自分でドアを開けられないお客は、店の中に入れなくてもいいですから。
真久部さんの言葉を思い出した。
「……」
コンコン
そうしている間も叩かれる。いや、俺がこんなとこ立ってるから開けられないんだよ、うん。すみません、開けますね、とふり返ろうとして……どうしてだろう、硝子ドアの向こう、店の外に、誰がいるのか確認しちゃいけない気がした。
コンコン
えーっと。とりあえず、ここからどかないと。そう思うのに、足が動かない。
コンコン
慈恩堂のドアは外開き。取っ手を握って、向こう側から引っ張れば……。
コンコン
声を掛けてくれたらいいのに。そうしたら動ける。
コンコン
いつも静かに騒がしい慈恩堂の店内が、どうしてかしんと静まり返っている。何かとうるさい古時計たちの音も、今はかすかにしか聞こえない。
コンコン
空気が重い。いつも店に入ったとたん目に入る、布袋様の太った腹も心なしか艶を失っているみたいだ。
コンコン
荷物持ってて開けられないとか? それなら手伝うけど、ドアの向こうの人は何で何も言わないんだろう。
コンコン コンコン
いつでもあっち側から開けられるドアのすぐ前に、背中を晒して立っているのは怖かった。内開きなら良かったのに、そうすれば体重を掛けて開かないようにできるのに。
コンコン コンコン コンコン
もう叩くのは止めてくれ。自分で開ければいいじゃないか。それが出来ないなら、何か言葉を……。
あけて 開けろ あけてよ
「……っ!」
心臓が飛び跳ねた。
あけてよ~ 開けて あけろ
声じゃない。声じゃない。だって遠すぎる。ごうごうと、遠くで渦巻く風の音に似てる。胸の奥の奥、底のほうでざわざわと、響くそれは海鳴りみたいだ。心の深いところにある普段意識しない場所が、脆い硝子になったようにぐずぐずと崩れかける。とても頼りなくて、とても寂しい──。
さびしい~ さみしい~
寂しい
「……」
寂しくて、俺の声も出ない。ああ、寂しい。何かからどこかからもぎ離され、さまよい出て、どこへ行ったらいいのかわからない。何にもない。どこにもない。自分の居る場所は、居てもいい場所はどこだ? いつも疎まれ追い払われて……。
寂しい 寂しい 寂しい
さびしい~ さみしいよ~
そのうちどこかへ散らされてしまう。嫌だ、嫌だ。さみしい寂しい。妻と娘と別れた俺、リストラされた俺、いらない俺。逃げ帰ろうにも、父のいる母のいる、あの暖かい家には帰れない。あの日、二人とも殺されてしまって──。
さみしい さみしい さびしい
あけて~ あけてあけて
さびしい あけろ 開けて あけてさみしい
そうだ、双子の弟ももういない──俺と同じ顔、同じ声の、殺されてしまった弟、俺の半身。何をせずとも意識しなくても繋がっていた糸が、断ち切れたあの瞬間。ああ、そうだ、もう名前を呼んでも……。
兄さん!
「あ……」
耳元で、弟が俺を呼ぶ声を聞いた気がした。
チックタックチックタック
チチッチチッチッ……
……チッ……チッ……
また古時計たちが好き勝手に時を刻んでる、ような気がする。
チッチチチ チッチチチ チッチ チッチチチ チッチチチ チチチチチチ
チッチッチッ チチチッチッ チッチッチッ チチチッチッ
機嫌が良さそうで何より。ちょっとうるさいような気もするけど、さっきみたいに静まり返っているよりはずっといい。
怪しい鯉の香炉、赤膚焼きの壺、浮世絵を貼り付けて仕立てられた枕屏風、ファイト一発な筋肉自慢の阿吽の仁王像、宝船に乗ってる七福神、貴石と銀で出来た梅の小枝、長い髭が引っ掛かりそうで近くを通るときは気を使う銅製の竜。怪しい仏像、神像たち。
いつもの慈恩堂だ。
俺はほっと息をつき、熱いお茶の入った湯飲み茶碗で指先を温めていた。足元の、帳場の掘り炬燵は暖かい。店の隅で何かの気配が息を潜めているような、そんな微妙な空気も感じなくはないが、どうってことない。さっきのアレに比べたら。
弟が俺を呼ぶ声を聞いた、そう思った瞬間。ドアの向こうの何かの気配が消え去った。硝子を叩く音もいつの間にか聞こえなくなっていて、俺はようやく動けるようになった。
それでもふり向いて、硝子ドアの向こうを見るにはなれなかったけど。
そのまま前を見て、ロボットみたいにぎくしゃく歩いて、ようよう帳場机の前に落ち着いた。そのとき耳に聞こえた古時計たちの自己主張の強い秒針の音に、どれだけ安心したかなんて──つけ上がらせそうな気がするから言わない。