第326話 芒の神様 5
文字数 2,194文字
「あの時はホント、肝が冷えましたよ……」
俺のぼやきに、真久部さんが神妙に頭を下げてくる。
「今回はご心配をお掛けしてしまい、申しわけありませんでした」
チッチッチッチ……
チ……チ……チ……チ……
……チッ……チッ……チッ……
…… …… ……
店主に合わせてか、古時計たちの時の刻みもなんとはなしに大人しい。古美術雑貨取扱店慈恩堂は、今日も微妙に怪しい空気の中にある。仄暗いような、それでいて少し明るくもあるような──。
つい先日の、俺の出張仕事兼、慈恩堂店主主催の慰安旅行。穏やかに和やかに、そして楽しく過ごして終わるはずだったのに、最後の最後で急転直下。風にうねくる丈高い薄の海、その真っ只中に、まるで呑まれるみたいに真久部さんの姿を見失ったときにはもう、胸の奥が冷えてぎゅっと縮こまるような、何かがごそっと崩れ落ちていくような、そんな気持ちになって、本当に焦りまくったよ。
あのときあの場所で、一体何があったのか知りたかったけど、帰ってから話すって真久部さんが言うから、今日、なんとか時間を作って出てきたんだけど……。
「それにしても──、あんなに呼んだのに、どうして何も言ってくれなかったんです? それまでは返事してくれてたじゃないですか」
呼んでも呼んでも返事が無いばかりか、見渡す限りの薄の穂波は、まるで最初から俺以外に人なんかいなかったみたいに、ただただ風に吹かれているだけだったから、俺、もう不安で不安で……どうしようかと思ったよ。
「すみません、本当に……」
「……」
いつものように怪しい笑みのひとつでも見せて、俺の追及を躱してくるかと思ったのに、目を伏せて、謝罪の言葉を繰り返すばかり。
「えーと、その……」
真久部さんたら、今日はなんだかテンション低くてやりにくい。いつもはハイテンションかって言われると、全然そんなことはないんだけど、この人、わりに機嫌がわかりにくいんだ。基本的に読めない笑みを浮かべてて、あんまり感情の起伏を見せることがない。──俺を揶揄うときだけ、ちょっと楽しそうだったりするんだけどさ。
「あの、謝ってほしいとか、そういうんじゃなくて。ただもう、あのときはマジで真久部さん、どっかの穴ぼこにでも落っこちたのかもって、俺、焦って。ほら、たまにあるじゃないですか、ゴルフ場とかでいきなり地面陥没とか」
もしかして神隠しにでも遭った? とかまで考えてしまったのが、俺の脳内修羅場。言わないけどさ。
「何でも屋さんが探しに来てくれて、助かりました」
ありがとうございます、と言いながら、真久部さんはやっぱりどこか力なく微笑み、いつにもまして香りの高い、とても良いお茶を淹れてくれる。俺の好物のお菓子も勧めてくれる──なんかお高い店のがある。
とりあえずお茶を頂くことにして、心からの言葉を俺は告げた。
「心配ですもん……そりゃ探しに行きますって。とにかく無事でよかったです、ほんとに」
あのあと俺は、この人の姿があったはずの場所を目指して駆けに駆けた。高台から細々と続く道ともいえない道を、硬い薄の根に足を取られそうになりながら必死に走った。たどり着いても、そこに居なかったらどうしよう、俺が間違ってたらどうしよう、と気が気じゃなかった。
結果、間違ってはいなくて、わりとすぐ発見できたのは良かったんだけども。
「でも、何であんなところでぼーっとしてたんです?」
踏み固められただけの道の途中、雨が降ったら確実にぬかるみそうな窪地に、真久部さんは突っ立っていた。そんな地形のせいか前後左右斜めの、全方向から薄の穂が被さっていて、まるで薄でできた籠に籠 められたみたいだ、と思ったのは覚えている。
「なんか顔色も良くなかったし、今は聞かないでほしいっていうから俺、問い質したりするのは我慢したんですけど」
今は、ってことは、その場でその話はダメなんだな、と思って、俺はその時の、安堵のあまりの文句を呑み込んだんだ。単に、喋る元気がなかっただけなのかもしれないけど……うん。だからそのぶん、いま真久部さんのこと責めちゃってるんだけどさ。
「──何でも屋さんはこ う い う こ と には察しが良くて、本当に助かります」
ふうっ、と溜息を吐いてから、うっそりと笑う地味な男前。どこか自棄気味な様子が気にかかる。
「だって、帰りの電車でも何か変だったから……」
ふわっと醸し出されたなんともいえない雰囲気に呑まれて、今までの、心配のあまりの威勢の良さが尻すぼみ、ごにょごにょと言い訳みたいになってしまった。
「あの場で話せなかったのは、きっと聞いているからです」
聞いてるって、誰が? とかたずねる前に次の言葉を始めるから、俺は黙って耳を傾けた。
「あのとき、僕は道がわからなくなってしまっていたんだよ。一本道のはずなのに、いきなり数えきれないくらいの道が、目の前に現れて」
それは地面だけではなく、空中にも伸びていたのだという。
「その前に一度迷いかけた時は、何でも屋さんの声でなんとかなりました。だけど、そこからちょっと進んだら、また、ね……。これはどうしたものかと、ほんの少しのあいだ立ち止まっていただけのつもりだったのに──思いのほか時間が経っていたんですね。あのときは、もう、きみの声すら届いてなくて」
「なんか……危なかったんじゃないですか?」
「まあ、そうですね」
否定はせずに、真久部さんは困ったように笑んでみせる。
俺のぼやきに、真久部さんが神妙に頭を下げてくる。
「今回はご心配をお掛けしてしまい、申しわけありませんでした」
チッチッチッチ……
チ……チ……チ……チ……
……チッ……チッ……チッ……
…… …… ……
店主に合わせてか、古時計たちの時の刻みもなんとはなしに大人しい。古美術雑貨取扱店慈恩堂は、今日も微妙に怪しい空気の中にある。仄暗いような、それでいて少し明るくもあるような──。
つい先日の、俺の出張仕事兼、慈恩堂店主主催の慰安旅行。穏やかに和やかに、そして楽しく過ごして終わるはずだったのに、最後の最後で急転直下。風にうねくる丈高い薄の海、その真っ只中に、まるで呑まれるみたいに真久部さんの姿を見失ったときにはもう、胸の奥が冷えてぎゅっと縮こまるような、何かがごそっと崩れ落ちていくような、そんな気持ちになって、本当に焦りまくったよ。
あのときあの場所で、一体何があったのか知りたかったけど、帰ってから話すって真久部さんが言うから、今日、なんとか時間を作って出てきたんだけど……。
「それにしても──、あんなに呼んだのに、どうして何も言ってくれなかったんです? それまでは返事してくれてたじゃないですか」
呼んでも呼んでも返事が無いばかりか、見渡す限りの薄の穂波は、まるで最初から俺以外に人なんかいなかったみたいに、ただただ風に吹かれているだけだったから、俺、もう不安で不安で……どうしようかと思ったよ。
「すみません、本当に……」
「……」
いつものように怪しい笑みのひとつでも見せて、俺の追及を躱してくるかと思ったのに、目を伏せて、謝罪の言葉を繰り返すばかり。
「えーと、その……」
真久部さんたら、今日はなんだかテンション低くてやりにくい。いつもはハイテンションかって言われると、全然そんなことはないんだけど、この人、わりに機嫌がわかりにくいんだ。基本的に読めない笑みを浮かべてて、あんまり感情の起伏を見せることがない。──俺を揶揄うときだけ、ちょっと楽しそうだったりするんだけどさ。
「あの、謝ってほしいとか、そういうんじゃなくて。ただもう、あのときはマジで真久部さん、どっかの穴ぼこにでも落っこちたのかもって、俺、焦って。ほら、たまにあるじゃないですか、ゴルフ場とかでいきなり地面陥没とか」
もしかして神隠しにでも遭った? とかまで考えてしまったのが、俺の脳内修羅場。言わないけどさ。
「何でも屋さんが探しに来てくれて、助かりました」
ありがとうございます、と言いながら、真久部さんはやっぱりどこか力なく微笑み、いつにもまして香りの高い、とても良いお茶を淹れてくれる。俺の好物のお菓子も勧めてくれる──なんかお高い店のがある。
とりあえずお茶を頂くことにして、心からの言葉を俺は告げた。
「心配ですもん……そりゃ探しに行きますって。とにかく無事でよかったです、ほんとに」
あのあと俺は、この人の姿があったはずの場所を目指して駆けに駆けた。高台から細々と続く道ともいえない道を、硬い薄の根に足を取られそうになりながら必死に走った。たどり着いても、そこに居なかったらどうしよう、俺が間違ってたらどうしよう、と気が気じゃなかった。
結果、間違ってはいなくて、わりとすぐ発見できたのは良かったんだけども。
「でも、何であんなところでぼーっとしてたんです?」
踏み固められただけの道の途中、雨が降ったら確実にぬかるみそうな窪地に、真久部さんは突っ立っていた。そんな地形のせいか前後左右斜めの、全方向から薄の穂が被さっていて、まるで薄でできた籠に
「なんか顔色も良くなかったし、今は聞かないでほしいっていうから俺、問い質したりするのは我慢したんですけど」
今は、ってことは、その場でその話はダメなんだな、と思って、俺はその時の、安堵のあまりの文句を呑み込んだんだ。単に、喋る元気がなかっただけなのかもしれないけど……うん。だからそのぶん、いま真久部さんのこと責めちゃってるんだけどさ。
「──何でも屋さんは
ふうっ、と溜息を吐いてから、うっそりと笑う地味な男前。どこか自棄気味な様子が気にかかる。
「だって、帰りの電車でも何か変だったから……」
ふわっと醸し出されたなんともいえない雰囲気に呑まれて、今までの、心配のあまりの威勢の良さが尻すぼみ、ごにょごにょと言い訳みたいになってしまった。
「あの場で話せなかったのは、きっと聞いているからです」
聞いてるって、誰が? とかたずねる前に次の言葉を始めるから、俺は黙って耳を傾けた。
「あのとき、僕は道がわからなくなってしまっていたんだよ。一本道のはずなのに、いきなり数えきれないくらいの道が、目の前に現れて」
それは地面だけではなく、空中にも伸びていたのだという。
「その前に一度迷いかけた時は、何でも屋さんの声でなんとかなりました。だけど、そこからちょっと進んだら、また、ね……。これはどうしたものかと、ほんの少しのあいだ立ち止まっていただけのつもりだったのに──思いのほか時間が経っていたんですね。あのときは、もう、きみの声すら届いてなくて」
「なんか……危なかったんじゃないですか?」
「まあ、そうですね」
否定はせずに、真久部さんは困ったように笑んでみせる。