第273話 小魚たちの緊急避難
文字数 1,886文字
俺の頭に、獲物を狙う猫の姿が過った。物陰に潜み、隙あらば飛び掛からんとして、爛々と眼を輝かせる──。
「空腹を満たそうとして、手近にいる、もう少し食べでのある魚に手を伸ばそうとしたわけなんですが」
シーツの皺をすっすと伸ばしながら、真久部さんはさらっと怪異を語る。
ここ、慈恩堂じゃないのになー、と遠い目になりつつも、自分で振った話題なんだから俺は聞いているしかない。
「かつて招き猫に食われ、家神様の御力のお蔭で解放された経験のある魚たちも、慌てたわけですよ。強いモノたちはともかく、弱い小魚たちは逃げようとして──」
新参の、こんなビニールテープの柄に比べれば、小魚でもここの魚たちはもっとずっと強いので、力の小さくなった招き猫にはまだそうやすやすと獲られなかったはずなんですが、と続ける。
「パニックになったんでしょう、ちょうどそこにいた人間を利用して──、蔵の外に逃げたんですよ」
俺の出してきた箱の蓋を開け、色褪せた包み布を除けて、これは乾漆造……に似せた造りのようだけど、そう悪くない出来ですね、などと呟いている。
「ちょうどそこにいた人間って……?」
聞き流せなくて、ついたずねてしまう。
「もちろん、何でも屋さんと水無瀬さんのことに決まってますよ」
何かの仏像らしきものから顔を上げ、真久部さんはにこりと笑う。
「ほら、二人とも、長持ちの蓋を開けて招き猫を見つけてからの記憶が無く、次に気づいたときにはそれぞれ覚えのない箱を持って外にいて、蔵の文句 を聞いていたと言っていたでしょう? あれは、危険な捕食者から逃げようとした魚たちの苦肉の策だったんです」
箱の中に入っていたのは、水無瀬さんのが香炉、俺のが灰皿だったんだけど──。
「もしかして、いわゆる緊急避難ってやつですか……? 俺たちに持ち出させて」
俺の言うのに、真久部さんはうなずいてみせる。その目がなんだか笑っていて……。
「面白がらないでくださいよ……。“泥棒製造機”な蔵に入ったせいで変になっちゃったのかと、俺、ちょっと焦ったんですから……」
抗議すると、すみません、と言いながらもくすくすと笑う。
「もうっ、真久部さん」
「すみません、想像したらおかしくて……もちろん、笑ったのは何でも屋さんたちのことじゃなくてね、もし視える人がその場にいたら、なかなかの見ものだっただろうとと思ってしまって」
それから、スキューバダイビングをしているところを想像してみてください、なんてことを言う。
「青い海、色とりどりの小魚たち。群れを成して泳ぎまわる、そこは彼らの楽園です。長いあいだ、彼らは脅かされることがなかった。なのに、いきなり大きな魚が現れて、小魚たちを捕食しようとする。彼らは慌てて漁礁に隠れたけれど、大きな魚はじっと彼らを狙ってる──」
──小魚たちは、そのまま水無瀬家の蔵に眠る道具類についているという魚モノたちで、大きな魚が招き猫か。……サメってほどじゃないんだな。サメはわざわざ小さな魚を狙わないもんなぁ。
「そこに、ダイバーたちが現れた。大きな魚を連れてきた張本人たちでもあるけど、彼らの手で漁礁ごと逃げてしまえば、大きな魚は追ってこれない」
漁礁というより、この場合は生簀かな、なんてことを呟いている。
「香炉には鮎、灰皿には出目金の意匠がほどこされていました。鮎と出目金は今の招き猫に食われるほどではなく、特に逃げる必要もなかったんだろうけれど、他の小魚たちを匿ってやれるくらいの力があったから、それで頑張ったんでしょう。──水無瀬さんと何でも屋さんに目眩ましを掛けられたのは、火事場の馬鹿力のようなものだったんじゃないかな」
「火事場の馬鹿力……」
「小魚たちが食われたら食われただけ、それが招き猫の力になってしまうからねぇ。自分は大丈夫だからと放置すれば、結局自分の身に返ってくる」
きっと、かつてのことを思い出したんでしょうね、と真久部さんは香炉と灰皿に同情しているようだ──。うん、真久部さんだもんな。
「特に、灰皿は容量 が大きかったようだよ……。分厚い硝子で出来ていて、硝子は水のようだから。たぶん居心地もよかったと思います」
持っているのが何でも屋さんと水無瀬さんだから、彼らも運ばれ心地が良かったんじゃないかなぁ、などと、ファンタジーな推測を語った。
「水無瀬さんは水無瀬家の血を引く金魚好きだし、何でも屋さんは何でも屋さんで、池の金魚を好もしく眺めていたでしょう? こちらの魚たち は、水無瀬家の魚らしく、海のものでも金魚寄りだからね」
「はあ……」
金魚寄りって何?
「何しろ、<水無瀬>の名前、その縁起は金魚にあるようだから」
「空腹を満たそうとして、手近にいる、もう少し食べでのある魚に手を伸ばそうとしたわけなんですが」
シーツの皺をすっすと伸ばしながら、真久部さんはさらっと怪異を語る。
ここ、慈恩堂じゃないのになー、と遠い目になりつつも、自分で振った話題なんだから俺は聞いているしかない。
「かつて招き猫に食われ、家神様の御力のお蔭で解放された経験のある魚たちも、慌てたわけですよ。強いモノたちはともかく、弱い小魚たちは逃げようとして──」
新参の、こんなビニールテープの柄に比べれば、小魚でもここの魚たちはもっとずっと強いので、力の小さくなった招き猫にはまだそうやすやすと獲られなかったはずなんですが、と続ける。
「パニックになったんでしょう、ちょうどそこにいた人間を利用して──、蔵の外に逃げたんですよ」
俺の出してきた箱の蓋を開け、色褪せた包み布を除けて、これは乾漆造……に似せた造りのようだけど、そう悪くない出来ですね、などと呟いている。
「ちょうどそこにいた人間って……?」
聞き流せなくて、ついたずねてしまう。
「もちろん、何でも屋さんと水無瀬さんのことに決まってますよ」
何かの仏像らしきものから顔を上げ、真久部さんはにこりと笑う。
「ほら、二人とも、長持ちの蓋を開けて招き猫を見つけてからの記憶が無く、次に気づいたときにはそれぞれ覚えのない箱を持って外にいて、蔵の
箱の中に入っていたのは、水無瀬さんのが香炉、俺のが灰皿だったんだけど──。
「もしかして、いわゆる緊急避難ってやつですか……? 俺たちに持ち出させて」
俺の言うのに、真久部さんはうなずいてみせる。その目がなんだか笑っていて……。
「面白がらないでくださいよ……。“泥棒製造機”な蔵に入ったせいで変になっちゃったのかと、俺、ちょっと焦ったんですから……」
抗議すると、すみません、と言いながらもくすくすと笑う。
「もうっ、真久部さん」
「すみません、想像したらおかしくて……もちろん、笑ったのは何でも屋さんたちのことじゃなくてね、もし視える人がその場にいたら、なかなかの見ものだっただろうとと思ってしまって」
それから、スキューバダイビングをしているところを想像してみてください、なんてことを言う。
「青い海、色とりどりの小魚たち。群れを成して泳ぎまわる、そこは彼らの楽園です。長いあいだ、彼らは脅かされることがなかった。なのに、いきなり大きな魚が現れて、小魚たちを捕食しようとする。彼らは慌てて漁礁に隠れたけれど、大きな魚はじっと彼らを狙ってる──」
──小魚たちは、そのまま水無瀬家の蔵に眠る道具類についているという魚モノたちで、大きな魚が招き猫か。……サメってほどじゃないんだな。サメはわざわざ小さな魚を狙わないもんなぁ。
「そこに、ダイバーたちが現れた。大きな魚を連れてきた張本人たちでもあるけど、彼らの手で漁礁ごと逃げてしまえば、大きな魚は追ってこれない」
漁礁というより、この場合は生簀かな、なんてことを呟いている。
「香炉には鮎、灰皿には出目金の意匠がほどこされていました。鮎と出目金は今の招き猫に食われるほどではなく、特に逃げる必要もなかったんだろうけれど、他の小魚たちを匿ってやれるくらいの力があったから、それで頑張ったんでしょう。──水無瀬さんと何でも屋さんに目眩ましを掛けられたのは、火事場の馬鹿力のようなものだったんじゃないかな」
「火事場の馬鹿力……」
「小魚たちが食われたら食われただけ、それが招き猫の力になってしまうからねぇ。自分は大丈夫だからと放置すれば、結局自分の身に返ってくる」
きっと、かつてのことを思い出したんでしょうね、と真久部さんは香炉と灰皿に同情しているようだ──。うん、真久部さんだもんな。
「特に、灰皿は
持っているのが何でも屋さんと水無瀬さんだから、彼らも運ばれ心地が良かったんじゃないかなぁ、などと、ファンタジーな推測を語った。
「水無瀬さんは水無瀬家の血を引く金魚好きだし、何でも屋さんは何でも屋さんで、池の金魚を好もしく眺めていたでしょう? こちらの
「はあ……」
金魚寄りって何?
「何しろ、<水無瀬>の名前、その縁起は金魚にあるようだから」