第45話 合歓の木の夢 1
文字数 2,105文字
ふわり、と漂う甘い香。何だろうこれ。桃に似てる。
ああ、これ合歓の木だ。刷毛みたいな花が揺れてる。花がふわり。香もふわり。
微かな風が吹いて葉がさやぐと、ぽとりぽとりと花が落ちる。薄紅色のぼたん雪。
羽化したばかりの蝶の翅がだんだん乾いて伸びるように、新しい花芽が立ち上がり、ゆるゆるとその身を振りひらいていく。花が開いていくごとに、翼を広げたような羽状複葉が合わさり、ぴたりと閉じて眠りにつく。花の香が強くなる。
いつの間にかまた葉が目覚めて、きっちり合わさっていた葉を解いて広げている。花はなおも長けてゆき、誰も手を触れないのにまたぽたぽたと地面に落ちる。
何の疑問も感じることなく、俺はそれを見ていた。葉が、花が、時間の経過とともに変化していく。俺はただここに突っ立ってそれを見ているだけ。
ああ、また日差しが翳って……。
合歓の木が微睡む。ふわふわとした浅い眠りにまたもや連れていかれそうになった時、とん、と足元に何かが当たった。ハッとしてそれを見る。サッカーボールだ。無意識に拾おうとして、そうだ、次に来るのは……!
俺は猛ダッシュした。すぐそこの塀の切れ目、角に向かって。そして──
ボールを追ってそこから飛び出してきた男の子を、《初めから分かっていたかのようにぴたりとその位置に両手を投げ出し》、横から掻っ攫うように抱き止めた。勢いのまま一緒に道に転がる。耳障りなブレーキ音と、男の子を抱えた腕に感じるアスファルトの熱さ、そして、目と鼻の先で急停止した大きなワゴン車。
ほぼ同時に角に飛び込んできていた自転車が、転倒しそうになりながらも斜めになって止まっていた。効き足で辛うじて堪えたようだ。
「あ、危ないじゃないか! 何考えてるんだ急に飛び出してきて!」
ワゴン車のパワーウィンドウが開いて、ドライバーが叫んでる。突然のことに何が起こったか分からずぼんやりしている男の子を立たせてやってから、俺はドライバーに言い返した。
「この子も悪いかもしれないけど、ここは住宅地だ。徐行運転をしてなかったそっちも悪い。何キロ出してた? 最悪、この子を撥ねた瞬間、あっちから走ってきていた自転車と衝突してたぞ!」
スピード出しすぎだ、そう指摘すると、分が悪いと悟ったのかワゴン車は急発進で走り去った。何てやつだ。って、あ。ナンバープレート見るの忘れた。俺のバカ!
「どうしたんですか、大きなブレーキの音が……リョウコちゃん!」
心の中で自分を責めていると、近所の人が様子を見に出てきたようだ。男の子……いや、女の子だったのか。その子の名を呼ぶ。
「リョウコちゃん、大丈夫?!」
「七尾のおばちゃん!」
リュウコちゃんは七尾のおばちゃん、と呼んだ年配の女性に飛びつき、大きな声で泣き出した。俺は転がっていたボールをゆっくりと拾う。
「また道路でボール遊びをしてたのね。危ないからあっちの公園で遊びなさいってお母さんにも言われてたでしょ!」
ごめんなさい、と顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら何度も謝るリョウコちゃん。
「すみません……あの、この子を助けてくださったんですね?」
「いや、凄かったですよ!」
七尾さんが言うのへ、自転車の青年が勢い込んで割って入った。目の前で事故寸前、自分も危うくぶつかりそうだったことで呆然としていたらしいけど、ここに来てようやく自分を取り戻したようだ。
「あの鮮やかなタックル! あれが無かったら、間違いなくこの子撥ねられてました。タックルというより、ボールのインターセプトみたいだったな。すうっと吸い込まれるみたいだった。俺、アメフトやってるけどあんなにスマートに決まったの見たことないです」
それにしても、よくこの子が飛び出してくるのが分かりましたね、と感心されて、俺は口ごもった。
「いや……ボールが飛び出してきたから、次はそれを追いかける子供かなーと。あのワゴン車、かなりのスピードだったから、飛び出してきた子供とぶつかると思ってとっさに……」
七尾さんと青年の二人から、「すごい洞察力と反射神経ですね!」と賞賛されたが、俺は素直にそれを受けることが出来なかった。だって、俺は知っていた んだ。あの子があのワゴン車に撥ねられるのを。自転車の青年が自転車ごと宙を飛ぶのを。
実はリョウコちゃんの伯母だという七尾さんが、お礼を、その前に怪我の治療を、と言ってくるのを次の仕事があるからと何とか振り切って、俺は事務所兼住居のボロビル目指して歩いていた。とても疲れていた。擦り剥いた肘が痛い。手当てしてもらったほうが良かったかな、と思いながらも、ただ足を動かして一心に歩く。
何とか駅前まで戻ってきたところで、また合歓の木。思わず足が止まる。喉が変な音を立てた。
駅前広場のバス停裏側に高く聳える合歓の木は、濃い緑色の手を広く延べて、天から降るがごとくにその一日花を落とす。ぽとり、ぽとり……。
怖い。
またあの合歓の木の夢に取り込まれたくはない。早く、家に……いや、ここからはまだ遠い。ならば──
ああ、これ合歓の木だ。刷毛みたいな花が揺れてる。花がふわり。香もふわり。
微かな風が吹いて葉がさやぐと、ぽとりぽとりと花が落ちる。薄紅色のぼたん雪。
羽化したばかりの蝶の翅がだんだん乾いて伸びるように、新しい花芽が立ち上がり、ゆるゆるとその身を振りひらいていく。花が開いていくごとに、翼を広げたような羽状複葉が合わさり、ぴたりと閉じて眠りにつく。花の香が強くなる。
いつの間にかまた葉が目覚めて、きっちり合わさっていた葉を解いて広げている。花はなおも長けてゆき、誰も手を触れないのにまたぽたぽたと地面に落ちる。
何の疑問も感じることなく、俺はそれを見ていた。葉が、花が、時間の経過とともに変化していく。俺はただここに突っ立ってそれを見ているだけ。
ああ、また日差しが翳って……。
合歓の木が微睡む。ふわふわとした浅い眠りにまたもや連れていかれそうになった時、とん、と足元に何かが当たった。ハッとしてそれを見る。サッカーボールだ。無意識に拾おうとして、そうだ、次に来るのは……!
俺は猛ダッシュした。すぐそこの塀の切れ目、角に向かって。そして──
ボールを追ってそこから飛び出してきた男の子を、《初めから分かっていたかのようにぴたりとその位置に両手を投げ出し》、横から掻っ攫うように抱き止めた。勢いのまま一緒に道に転がる。耳障りなブレーキ音と、男の子を抱えた腕に感じるアスファルトの熱さ、そして、目と鼻の先で急停止した大きなワゴン車。
ほぼ同時に角に飛び込んできていた自転車が、転倒しそうになりながらも斜めになって止まっていた。効き足で辛うじて堪えたようだ。
「あ、危ないじゃないか! 何考えてるんだ急に飛び出してきて!」
ワゴン車のパワーウィンドウが開いて、ドライバーが叫んでる。突然のことに何が起こったか分からずぼんやりしている男の子を立たせてやってから、俺はドライバーに言い返した。
「この子も悪いかもしれないけど、ここは住宅地だ。徐行運転をしてなかったそっちも悪い。何キロ出してた? 最悪、この子を撥ねた瞬間、あっちから走ってきていた自転車と衝突してたぞ!」
スピード出しすぎだ、そう指摘すると、分が悪いと悟ったのかワゴン車は急発進で走り去った。何てやつだ。って、あ。ナンバープレート見るの忘れた。俺のバカ!
「どうしたんですか、大きなブレーキの音が……リョウコちゃん!」
心の中で自分を責めていると、近所の人が様子を見に出てきたようだ。男の子……いや、女の子だったのか。その子の名を呼ぶ。
「リョウコちゃん、大丈夫?!」
「七尾のおばちゃん!」
リュウコちゃんは七尾のおばちゃん、と呼んだ年配の女性に飛びつき、大きな声で泣き出した。俺は転がっていたボールをゆっくりと拾う。
「また道路でボール遊びをしてたのね。危ないからあっちの公園で遊びなさいってお母さんにも言われてたでしょ!」
ごめんなさい、と顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら何度も謝るリョウコちゃん。
「すみません……あの、この子を助けてくださったんですね?」
「いや、凄かったですよ!」
七尾さんが言うのへ、自転車の青年が勢い込んで割って入った。目の前で事故寸前、自分も危うくぶつかりそうだったことで呆然としていたらしいけど、ここに来てようやく自分を取り戻したようだ。
「あの鮮やかなタックル! あれが無かったら、間違いなくこの子撥ねられてました。タックルというより、ボールのインターセプトみたいだったな。すうっと吸い込まれるみたいだった。俺、アメフトやってるけどあんなにスマートに決まったの見たことないです」
それにしても、よくこの子が飛び出してくるのが分かりましたね、と感心されて、俺は口ごもった。
「いや……ボールが飛び出してきたから、次はそれを追いかける子供かなーと。あのワゴン車、かなりのスピードだったから、飛び出してきた子供とぶつかると思ってとっさに……」
七尾さんと青年の二人から、「すごい洞察力と反射神経ですね!」と賞賛されたが、俺は素直にそれを受けることが出来なかった。だって、俺は
実はリョウコちゃんの伯母だという七尾さんが、お礼を、その前に怪我の治療を、と言ってくるのを次の仕事があるからと何とか振り切って、俺は事務所兼住居のボロビル目指して歩いていた。とても疲れていた。擦り剥いた肘が痛い。手当てしてもらったほうが良かったかな、と思いながらも、ただ足を動かして一心に歩く。
何とか駅前まで戻ってきたところで、また合歓の木。思わず足が止まる。喉が変な音を立てた。
駅前広場のバス停裏側に高く聳える合歓の木は、濃い緑色の手を広く延べて、天から降るがごとくにその一日花を落とす。ぽとり、ぽとり……。
怖い。
またあの合歓の木の夢に取り込まれたくはない。早く、家に……いや、ここからはまだ遠い。ならば──