第157話 煙管の鬼女 5

文字数 1,735文字

「男は……別の女にこれを使わせてしまったんでしょうか……」

「そういうことなんでしょうねぇ」

慣れたように紙縒(こよ)りを扱う真久部さん。

「苦界、という言葉、ご存知ですか? 何でも屋さん」

くがい……? えーとたしか……。

「時代劇で聞く言葉ですね。借金を返せなくて、娘が苦界に身を落とす、というのがよくあるお話のパターンで、売られてそういう場所へ──岡場所とか行くことをそういうふうにいうから」

岡場所って、今で言う風俗街のことだよな。

「春を売るような身分、遊女の身になった先にある世界、それを“苦界”っていうんですよね」

「元は仏教用語だったんですがね」

真久部さんは掃除を終え、今度は柔らかい布で丁寧に“六条”煙管を拭いている。特に羅宇の蒔絵部分は気を遣うのか、強く擦るのではなく、何度もそっと滑らせるようにしていた。

「今はその辺の女子高生、中学生、下手したら小学生かまでが援助交際とかやってますけど」

しょ、しょうがくせい? 嘘! って言いたいけど、今の世の中、否定できないかもしれない……。

「昔はね。身体を売るような女はまともな女ではなくて、まともでない女は市井にいられない。親に売られたり、借金を背負ったり、身体を売ることでしか生きていけなくなった女は、岡場所や吉原の遊郭に売られたんです」

どちらも今でいう風俗だけど、吉原は幕府公認の公娼街で、岡場所は否認可の個人経営の集まった、いわゆる私娼街でした、と補足してくれる。

「現在の風俗とは違い、自由も何もない劣悪な労働条件で、ろくなものも食べられなかった。それなのに、一晩に何人もの男を相手にしなければならない……。借金を返し終えて、生きてそこから出て来られた女はほんのわずかだといいます」

まさに、苦界ですよ、と続ける。

「太夫ともなれば、子供のうちから読み書きに、古典や和歌に楽器を仕込まれ、書は書けるだけではなく良くなければいけないし、茶を立てる姿も美しくなければ、囲碁などゲームも出来ないといけない。しかし教育には時間とお金がかかる。だからそういう費用はね、全て借金として負わせられるんです」

商売道具ともいえる着物も小物も、それは全て店から負わせられる借金の元。支給品じゃなくて自分で買う形にさせられるんだそうだ。きれいな着物(べべ)着てきれいな簪を身につけていても、底辺遊女から太夫まで、いつでも借金まみれにされていたという。

「店から女を抜けさせないためのシステムだから、いくら働いてもお金は返せません。売れっ子になって大金を稼ぐか、運がよければ身請けされるか──どちらも難しいことでした。売れて位が上がれば身の回りのものにお金がかかるし、自分に付いた妹分の面倒も見てやらなければならない。何より、売れれば自身の値が上がる。松の位の太夫ともなれば落籍()かせるには千両とも千五百両とも」

一両って、今の値打ちでいくらだったっけ……。お米の価値で換算した場合は六万いくらになると聞いたことがある。それが千とか万とか……。

「とても抜け出せない、苦界ですね……」

真久部さんはうなずいた。

「想像だけでは思い描くことのできない、苦しい世界でしょうね。“六条”の最初の持ち主も、そこから生きて出られなかった女性の一人だったのかもしれません」

「……」

「そんな中でも、彼女にひとときの夢を見させてくれた男がいた。──その男に、彼女は“六条”を預けたんだと僕は思っています」

さっき俺が見た、ゆめうつつの場面が本当にあったことなのだとしたら、そうなんだろうな。

「夢だとはわかっている。その夢に続きはないということも。ただ、底なし沼のような苦界にあって、たったひとつの小さな望み、それだけは決して違えてほしくはなかったのでしょう。他の女にだけは使わせてくれるなと、ほんの煙管ひとつをねぇ。ささやかな、ささやか過ぎる願いだったのに、男はそれを軽く考えたのか、軽い気持ちで違えてしまった」

ひとすじの蜘蛛の糸を、男が切ってしまった。男にとっては軽くても、彼女にとってはそれほどの重さを持った願いだったんでしょう、そう真久部さんは言う。
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