第145話 たくさん遊べば 4

文字数 2,670文字

「──そうですか。でも、それまではさぞご心配だったことでしょう。何ごともなくてよかったです」

はい、と彼女はうなずいた。

「検査とかいろいろ終わって、脳にも損傷は無いし、意識が戻れば大丈夫とお医者さんは言いましたが、家族全員、不安でいっぱいでした。兄が目を覚ましたときには、母も私も泣いたわ。倒れてるの見たときは死んでるかと思ったもの……父も何度も眼を擦って、たぶん泣いてたと思います……でも、やっと安心して兄を病院に残し、三人で家に戻ってみたら、大変なことが起こってたんですよ」

「……」

「燃えてたんです」

「え!」

「家、一戸建てだったんですけど、古い家で、お風呂のガス釜も古かったんです。錆びてたガス管の一部が、その日なんらかの原因でついに崩れたんじゃないかって、あとから聞きました。冬だったから、お風呂入ってるあいだの隙間風が寒いからと、父がドアとか窓とかを目張りしてたのも悪かったらしくて。風呂場に充満したガスが、爆発……」

「それは……」

言葉を失っていると、隙間から家の中に洩れてたら、それはそれで一家ガス中毒だったかもしれないです、と彼女は言う。

「一番爆発の被害が大きかったのは、風呂場の次に兄の部屋だろう、っていうことでした。家の構造がどうとか聞いたんですけど、とにかく、そのまま部屋にいたらどうなってたかわかりません。それに、もう夜も遅くて、兄が倒れてすごい音を立てるまでは父も母も私も眠っていたから、下手したら一家全員……」

「いや、ご無事で良かったですよ!」

俺は勢い込んで言った。

「きっとその熊が、ご家族の命を救ったんですよ」

人生万事塞翁が馬っていうけど、このお客さんの話もそうだろう。お兄さんは痛い思いをしたかもしれないけど、後遺症もなく済んだというし、家は燃えても家族は無事だ。こんないいことはないと思う。そのきっかけになったんなら、偶然にせよ、熊もいい仕事をしたって言ってもいいんじゃないかな。

「兄もそう言ってました」

「そうですか……」

「だから、退院してすぐ、熊が燃え残ってないか焼け跡を探そうとしたんですが、父から捨ててしまったことを聞いて、本当に残念がって……」

その年の試験に落ちてしまったくらいです、と小さくつけ加えるので、大変なことがあったんだからしょうがないですよ、と俺はフォローした。住んでた家が焼けるなんて、平常心でいられるわけがない。勉強のための本や参考書とかも燃えてしまっただろうし。

「住む場所はいろいろ変わって兄も落ち着かなかったでしょうけど、次の年には受かったからいいんですけどね。でも、ずっと、火事で燃えるよりは良かったかもしれないけど、あの熊はどうなったかなぁ、ゴミ処理場で燃やされたら同じかなぁ、なんて言ってて……」

きっと、どっか世界中を旅してるんだよ、お兄ちゃん。そんなふうに慰めても、寂しそうに笑うだけだったことを覚えています、と彼女は続ける。焼けてしまったけれど、子供の頃の兄の写真にはどれもこの熊が一緒に写っていて、兄にとっては本当に大切な友だちだったんだな、と思うと、私まで悲しくなったんです、と寂しげに微笑う。彼女にも、遠くに引っ越してしまって会えなくなった友だちがいたからと。

「その兄は……」

お兄さん、亡くなったのかなぁ……。彼女と年が離れてるといっても、まだ若いだろうに。

「数年前に結婚して、今この近くに住んでるんですけど」

ほっ。よかった、生きてた。縁起でもないことを考えてしまって、申しわけありませんと心の中で詫びておく。

「最近ようやく子供が生まれて、私、叔母になったんですよ」

「それはおめでとうございます」

「男の子で、お祝いに何を贈ればいいか、今日会って聞こうと思ってたんですけど、私、ここでぴったりのを見つけたと思うわ」

右耳の後ろのヒビを撫でながら、彼女は微笑む。俺は大きくうなずいた。

「それは、もう! お兄様にはこれ以上の贈り物はないでしょう」

「兄と私たち家族を守ってくれたように、これからは兄と兄の家族を守ってくれるといいなぁ……」

いい年して、子供っぽい考えかな、と彼女はちょっと恥ずかしそうだったけど、俺は大急ぎでそんなことないです、と首をふった。

「きっと守ってくれますよ。俺、今日は臨時の店番なんですけど、ここの店主が言ってました。モノを大切にすると、モノも大切にしてくれた人を大切にするって──じゃあ、あと少しお待ちくださいね!」

俺は熊を持って衝立の影に戻ると、丁寧にぷちぷちを巻いた。ヒビのはいった部分には、小さく切ったぷちぷちを別に当てておく。袋に入れても動かないようにして、と。よし、梱包完成。──ちょっと重いけど。

「重いので、気をつけてくださいね。大丈夫ですか?」

「ありがとうございます。大丈夫です。あら……?」

彼女は袋の中をのぞき込んだ。

「折り紙……?」

そこには、金色の紙で折った兜、緑のカエル、千代紙の奴さん、ピンクの船、黄色と紺色の手裏剣。い、いつの間に……? 顔が引きつりかけたけども。

「お、甥御さんへ。この店からのささやかなお祝いということで」

「まあ。うれしい! 兄夫婦も喜ぶと思います」

来たときと違い、明るい笑顔を見せてくれた彼女に、あははー、とか笑ってみせながら、店の外まで荷物を持って送り出す。重いからな、これ。せめて半地下の階段上がったところまで。

なんと、そこで彼女が道を間違っていたことが判明した。俺は彼女のお兄さんの住所を聞いて、駅前まで戻ってバスに乗るほうが早いと教える。礼を言って、彼女はよろよろと、でも確かな足取りで駅裏通りを歩いて行った。

後姿を少しだけ見送って、店に戻る。閉めたドアの内側でドアベルの音を聞きながら、俺はさっきの折り紙について考える。

あれ、俺が折ったんだろうなぁ……。帳場の引き出しにはいつも何かしら折り紙が入ってる。店番のとき、手慰みに折ったりもするけど、今日のあれは覚えが……。

ふと、クマさんのマグカップに入ったミルクココアと、小皿に盛った甘い菓子、小さな子供の笑い声が頭を過った。そのとたん、何だ、そうだったのか、と何かがすとんと胸に落ちた。何がそうなのかは、別にわからなくていい。きっと悪いものじゃあない。

くすっ、と笑いながら、背中を預けていたドアから離れて帳場に戻ろうとした、そのとき。

コンコン

ドアの硝子を叩く音。
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