第290話 疫喰い桜 4

文字数 2,185文字

「ご、ごちそうさま! 美味しかったです!」

眼をそらせ、俺は慌てて立ち上がった。座っていた椅子が倒れそうになり、さらに慌てる。

「えーっと、仕事! そう、次の仕事があるんです」

そうだよ、浜野さんちで洗車のお仕事。時間には余裕あるはずだけど、道具取りに戻らないといけないからな。──大きな車を洗うのはけっこうキツイけど、真久部の伯父さんと鯉のループタイの会話? なんか聞いてるよりマシ。

「今日はありがとうございます。今度、俺にも何かごちそうさせてくださいね!」

そっちを見ないまま、焦って椅子を直そうとしている俺に、何故か伯父さんが猫なで声で。

「そう急がなくても、何でも屋さん」

「え? いやでも、いったん戻って道具を取りに──」

言いかけたとき、俺のガラケーに着信音。え? ()()って電波が入るの? 一瞬混乱していると、「出ないのかい?」と面白そうな声。助けを求めたいのか何なのか自分でもわからないけど、カウンターの中の店主を見ると、慈悲深い笑みでうなずかれてしまった。

「じゃあ、すみません。ちょっと失礼して──」

ポケットからガラケーを出し、遠慮しつつ耳に当てた。

「はい。お待たせしました。ああ、浜野さん……はい、……え? あ、はぁ……そんなことが……ええ。そうですね、とにかくふやかすのが……ええ、あとは乾いた布などで……、取れそうですか? 良かったです。ええ。はい……。はい……いえいえ、お気になさらず。……カラスには困ったものですけど、怪我の功名といいますか。……あはは。それではまた何かありましたら。はい……はい。では、失礼します」

見えない相手にぺこぺこしながらの通話を終え、壁の隅を見ながら俺はしばし無言。

「……」

「どうしたね、そんなに暗い顔をして」

悪い報せだったのかな? そう問う声は、そっちを見なくてもニヤニヤと悪い顔をしているのがわかる。

「仕事、キャンセルになりました……」

カラスの悪戯のせいで。

今の、浜野さんからの電話。外であんまり五月蠅くカラスが鳴くから、窓から覗いてみたんだって。そしたら、玄関脇の屋根付き車庫に入れたワゴンの、ルーフの上でそいつが飛び跳ねてて。また糞を落とされたらたまらない、と慌てて外に出て追い払ったら、そこには何故かびしょ濡れの新聞紙。

どっから拾ってきたんだ、とイラつきつつも浜野さん、家の中から取ってきた椅子に乗って取り除いてみると、乾いてこびりついていたはずの鳥の糞たちが、おや、ふやけてる? となり。そのまま新聞で拭いてみると、どうやらきれいに取れそうな感じ……。それならもう、これからガソリン入れがてら、自動洗車機で洗ってしまおう──となったらしく、申しわけないけど……と、連絡くれたんだ。

いや、まあ、それはいいんだけど──。

「キャンセル? それは残念。ふむ、それなら急ぐ必要がなくなったねぇ」

おそるおそる振り返ると、スタイリッシュ仙人の満面の笑み。髭に埋もれた唇の両端がきゅっと引き上げられて、露骨にご機嫌でいらっしゃる。

「……」

俺、うっかりしてた。妙な力? があるんだよ、真久部の伯父さん。もう決まってる予定にこのヒトが割り込みたくなったら最後、その予定が次々キャンセルになってしまうんだ……。それも、悪いことが起こってのことじゃなくて、今回の浜野さんみたいに、自力で簡単に解決できるようになったりとか、そもそも必要がなくなったりとか、とにかくお客様にとっての幸運が理由で。

「どうだろう、空いた時間で、ひとつ私につきあってはくれんかね? 何でも屋さん。お仕事メニューの、<ご老人の話し相手>をお願いしたいと思うんだが」

面白いものを見せてあげるよ、なんてことを言うから、怖くてお断りしようとしたけど。

「どうぞ」

カウンターから出てきた店主が、何かお茶のようなものの入ったコップを渡してくれる。そのふわっとした、穏やかな笑みを見ていたら──。







コップの中身は、甘茶だった。

この世のものとは思えないくらい、美味かった。水も甘露だと思ったけど、甘茶も負けず劣らず甘甘露。すっとした爽やかなほの甘さが喉の奥を滑り落ちたと思ったら、頭がふわっとなって──。

あれ(甘茶)は大将のスペシャルだよ。レアもレアだ。良かったねぇ、何でも屋さん」

「……」

「私は一度も飲ませてもらったことがないんだが……まあ、いいか」

「……」

「コイツは鯉の(しょう)だから、熱いものは苦手でねぇ。ラーメンには見向きもしないんだが、冷たい飲み物には興味あるらしくて。でも、あそこの水に手を出したのは今日が初めてだよ、びっくりした。いくら何でも屋さんの飲むのが美味そうだったからって、莫迦だなぁ、お蔭で**がちょっと減ったじゃないか。これであのレアな甘茶まで飲んでたら……何? ひと舐めくらいはしてみたかった? ……ほう。お前の悪食は本物だな。自分のからだに障るものでも口にしたいとは。実に本性に忠実だ。そうは思いませんか、何でも屋さん?」

「……」

「何でも屋さん?」

「……それより、俺、聞きたいことがあるんですけど」

怪しい鯉のループタイの生態なんて、今はどうでもいい。

「ここ、どこなんですか?」

霞か雲か、ふわふわと、見渡すかぎり満開の桜。うららかな春の日の、幸せな白昼夢のような──。

いやいやいや。変だろう? このあたりの桜の季節はとうに過ぎてる。遅咲きの八重桜ですら葉桜になっているのに。
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