第49話 合歓の木の夢 5 終

文字数 1,928文字

「そういえば、琵琶を買って持ち帰ったら、夜中に勝手に鳴って怖い、と返しに来た人もいたねぇ」

店主は遠い目をしていた。

「よく話を聞いてみると、琵琶を置いてある部屋の隣が息子さんの部屋で、立て掛けた壁の裏側に音楽コンポを置いてるっていうんだよ。それで息子さんは主にロックを聴くらしいんだけど、トイレに立ったりコーヒーを淹れに行ったりする間、ヘッドホンをコンポの上に置いて行く癖があるっていうんだよね。その際、音楽は流しっぱなしらしくて。またヘッドホンがちょうど壁に触れる形になってしまって、その振動が……」

琵琶の板に伝わって、絃が共鳴を起こしたらしい。

「一度、別の壁に立て掛けるか、違う部屋にでも置いてみてくださいとアドバイスしたら、やっぱり僕の思った通りの原因だったみたいで、後からお礼と報告に来てくれたよ。息子さんが琵琶用にギタースタンドを買ってくれたって喜んでたなぁ……まあ、何でもかんでもが不思議現象ってわけじゃないってことですよ。むしろ、ちゃんと科学的に説明がつく場合のほうが多い」

オカルトと科学の間に立って、見極めるのも仕事のうち、と店主は言った。

「まあ、そんな大層なことではないのだけど。あんまり怖い怖いと言い続けたら、何でもないものですら怖いものになってしまう。そういう心理学の話でもあるし、低血糖で意識がぼんやりして急に何らかの心理変化が起こるというのは、生理学の範疇だと思うよ」

脳に糖という栄養がいかなくなるから起こる症状なんだし、という言葉に、「だから、今日のことは気にすることないよ」というメッセージを受け取る。

「ありがとうございます……」

しみじみとそう述べると、静かに冷たい緑茶を啜っていた店主がニイッと笑った。な、何?

「いやあ、今日に限ってどうして昼食を二人分作りたくなったのか、不思議に思ってたんだよ。何でも屋さんの分だったんだねぇ。せっかくだから食べていってよ。時間、大丈夫でしょう?」

「え?」

「簡単なものだから気にしなくていいよ」

「あの?」

不可思議な物言いに戸惑っているうちに、俺が空にした丁稚羊羹の皿は片付けられ、あれよあれよという間に大きなおにぎりの乗った皿と湯気の立つ汁椀が目の前に並べられていた。

「味噌汁はインスタントだけどね。おにぎりの中身は梅鰹と、ちりめんじゃこに大葉を刻み入れたものの二種類。本当は、お昼はインスタントラーメンで済まそうと思ってたんだよ。なのに、気がついたらご飯を炊いててね。そういう時は逆らわずに気のおもむくまま動いてみることにしてるんだけど、ふと冷蔵庫開けて有るものでネタ作ったと思ったら、てきぱきとおにぎりを握り始めてたよ」

面白い感覚だったなぁ、と店主は笑ってるけど、俺は笑えなかった。

店主の背後、飾り棚の上で、素朴な花器に生けられた薄紅色の合歓の花が揺れている。静かに稼動するエアコンの、仮初めの風にその身を任せ、まるで手招くかのように──

ふわり、とあの桃に似た甘い香が漂ったような気がした。

「ああ、いいでしょう、あれ。合歓の花」

俺の視線を追って、店主が振り返る。

「今朝、上の自宅のベランダに落ちてたんだ。表側からは見えないけど、このビルの裏側には合歓の木があるんだよ。カラスが悪戯でもして枝が折れたんだろうと思ったんだけど、花がきれいだったから──」

俺はもう聞いていなかった。もしかして店主は何者か(・・・)に操られたのかもしれない、なんてことがちらっと頭を過ったけど、そんなことどうでもいい。本人も気にしてないみたいだし。

「いただきます!」

ひと言そう言うと、俺は猛然とおにぎりに(かぶ)りついた。あの夢に、二度と捕われてなるものか。

薄紅色の闇、立ちこめる甘い香。昼と夜を永遠に繰り返す世界で、ぽたり、ぽたりと落ち続ける薄紅色の花──

「ひだる神、どこにでもいるんですよね。ストップ・ザ・低血糖! おにぎり、美味しいです!」

「……変な何でも屋さんだなぁ。でも、元気が出たみたいだからいいとしましょうか」

苦笑する店主にうんうんと頷きながら、俺はひたすらおにぎりを頬張った。

合歓の木とひだる神。多分、この二つに関係なんか全く無い。だけど、俺の中では両者がイコールになってしまった。低血糖に陥った脳の見た、異様に引き伸ばされた時間の中で、確かに合歓の木は薄紅色の花をあんなに沢山咲かせていたんだから。

だけど……今日だけはひだる神、いい仕事したと思う。リョウコちゃんと自転車の青年。あの二人をそのお陰で助けられたんだとしたら、錯乱でも白日夢でも、幻覚でももう何でもいいや!
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