第89話 お地蔵様もたまには怒る 8

文字数 2,073文字

今の、何?

考えようと思ったのに、何も考えられなかった。誰もいなくなった舞台を照らすのは、本物の月。ペーパームーンじゃない。だけど、いつかの時みたいに、賑やかな虫の音は聞こえてこなかった。そりゃそうだよな、今は冬だし、幻を駆使して俺を助けてくれた手妻地蔵様はここにはいらっしゃらないし。お参りするには始発に乗って、特急に乗り換えて……。

ふんわりした月光の中、そんなことを思いながらぼーっとしてると、遠く、雷の鳴るような音に気づいた。かすかに聞こえるあれは、電車の音……? それなら、時折り高まってまた低くなるのは道路を走る車のエンジン音に決まってる。駅の近くでは賑やかなネオンの灯りもこの辺りはまばらで、酔客の声も届かない。

いつもの、静かな夜だ。

それなのにどうしてこう胸が苦しいんだろう、俺、病気なのかな。自分のドッペルゲンガーを見たら死ぬっていうけど、同時に二人も見ちゃったらどうなるんだろう。自分が三人もいたらドッペルっていうか、トリプル? それともドイツ語なんだからドライファッハか。アインツヴァイドライアンドゥトロワ。

うう、二人分のタップダンスの運動量が今俺の心臓を襲っているのか。もしやそれがドッペルゲンガーを見た者の死因? もう一人の自分の分まで元の自分の心臓が賄って、後からドッと負荷が──。ああ、胸が、苦しい……。

ハッと眼を開くと、目の前に光る眼。──ぎゃ、と情けなく叫びそうになったけど、なんだこれ、居候の三毛猫──? ヤツは俺の胸の上で香箱を組んでいた。そりゃ重いわ苦しいわ、と思いながらも驚きに身動き出来ずにいると、じっと俺を見ていた三毛猫が、ひと声鳴いた。

 にゃん
  シャララン

鳴き声の向こうに、きれいな鈴の音が聞こえたような気がする。ぼんやりその余韻を追いかけているうちに、三毛猫はいつの間にか俺の上から降りて、コタツの中に潜っていったようだった。

コタツ?

半身起き上がろうとして、ようやく気づいた。俺は畳エリアに設置したコタツで寝てたらしい。潜り込んでる腹までは暖かいけど、三毛猫の去った胸元が、寒い……。ここで転寝する時はブランケット必須だもんな。ヤツが乗ってなかったら風邪引いてたかもしれない。重い毛布だったけど、暖かさは抜群だった……。

それにしても、どうして? なんでどうしていつの間に、俺は寝てたんだろう。カーテンを閉めてない窓からは、白く明るい月光が差してる。そう、今宵は満月。でも、まだ昼間だったはずで……あれ?

真久部の伯父さんの依頼で、地蔵堂に鎮座するお地蔵様に涎掛けを奉納しに行ったのは、今日の昼下がりだった。それから帰って来て、ぼろソファに座り込んで……。

そうだ、背中が重かった。とても重かったんだ。

だから体調が悪いのかと思って……。あれ? 今はすっきりして身体が軽い。何で?

答を求めて周囲を見渡したけど、知らない間に夜になっていたほかは、いつもと何にも変わらないコンクリート打ちっ放しの底冷えのする部屋を、月光が照らしているだけだった。













伯父が大変なご迷惑をお掛けしたようで、と慈恩堂の真久部さんが頭を下げた。

「いや、別に真久部さんは何も悪くないと……」

今回は。うん。
そう思いながらもちらりと見渡す店内は──、相変わらず怪しい。

一刀彫の翁と媼、明治時代の作だという古い硝子のランプ、小さな抽斗付きの持ち運び出来る飾り棚に、今はもう失われた技法で焼かれた茶碗、浮世絵を小さな屏風に仕立てたもの、眠り猫の香炉に、熊に乗った金太郎さん、壷や時計や蓄音機。

それらの古い道具たちが、何ともいえない存在感を醸し出してる。しかも、いつもより何だかツヤツヤしてる……。

「あの、もしかして、こちらに伯父さん来られました……?」

店主は少しだけ驚いたような顔をした。

「──どうしてそう思うんです?」

「いえ、何となく……みんな生き生きしてて、その」

いつも厳しい顔した達磨大師の木像も、心なしかご機嫌よろしく見えてですね……。

「そうですか……何でも屋さんにはやっぱり分かるんだね」

しみじみ頷いてる。やめて! 感心しないで。違うんだ、だって前に……。

「伯父さんがこの店に来ると、古道具たちが華やいでざわざわするって、前に真久部さん言ったじゃないですか」

ちょっとした雰囲気の違いを感じただけさ!

「それでもなかなかのことだと思うけどねぇ」

「やめてくださいよ……」

あーもう! 『何も見えない聞こえない。全ては気のせい気の迷い』。なんでそれを忘れるかな、ここに来る時一番大事な何でも屋版・慈恩堂店番心得を。うっかり「生き生きしてる」なんて思っても、それを口に出しちゃいけないのに、俺の馬鹿! まあ、今日は店番しに来たんじゃないけどさ……。

心の中で必死になって心得を唱えていると、怖がらせようとしたわけじゃないんですけどね、と店主は力無く苦笑する。

「本当に。伯父がすみません」
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