第48話 合歓の木の夢 4

文字数 2,056文字

それに動けなくなったわけじゃないし、ただ頭がぼーっとしてただけだ。

「病気が原因の場合もあるけど、これといって健康上の問題が無い場合でも、低血糖を起こすことはあるんだよ。食事の時間が不規則だったり、激しい運動をしたり、そこまではいかなくても、いつもより動き回ったなぁ、みたいな時でも、起こり得ることなんだ。時により、場合により、体調により、誰にでもその可能性がある──そうだね、アルコールを過ごした時なんかも起こることがあるそうだ」

飲み会の後、やたらにラーメンを食べたくなったりするのは、身体が低血糖を避けるため、無意識に糖分を欲した結果のことなんだ、と店主は言う。

「肝臓がアルコールを代謝するのに掛かりきりになるため、結果的に血糖値が下がってしまうらしい。それを補うため、身体が炭水化物を欲するんだって。炭水化物は糖の原料だからね」

そういえば若い頃、飲み会の後によくラーメンを食べた気がする。美味いんだな、あれが。何で食べたくなるのかなんて考えたことなかったけど、そんな理由があったのか。

「それに、症状も様々なんだよ。山で恐れられるひだる神みたいに急に動けなくなるような場合もあれば、人が変わったみたいにやたら怒りっぽくなる場合もある。妙な疲労に、異様な脱力感、眩暈、情緒不安定、判断力の低下、意識混濁に幻覚、錯覚、錯乱、記憶喪失、白日夢、あとで覚えの無い行動をしていたり、ちょっとしたことが異常に気になったり……」

丁稚羊羹を食べて糖分を補給するまでの間に、どれか思い当たるような症状は無かったかと店主は問うて来る。

「……」

俺は答えられなかった。

「いきなり店に現れた時の何でも屋さん、顔色が物すごく悪かったんだ。表情は無いし目つきもぼんやりとしてて……だから、低血糖じゃないかと思ったんだよ」

オカルトじゃなければね、と店主はお道化た顔で、だけど心配もしてみせるという器用さを見せてくれた。

「きみの仕事は身体を動かすことが多いし、なんというか、動と静の緩急が激しいのを知っているからね。余計にそう思ったんだ」

「……案外、科学的な思考をしてるんですね」

俺の言葉に、店主はひょいと片眉を上げてみせた。──やっぱり器用だ。

「僕は別にオカルト信奉者じゃないよ。ただ、物事には正しい手順があるということを知ってるだけなんだ。AにBを足すと普通はCになるが、条件次第でA’か、あるいはZになったりすることがある。その場合元のAに戻すには何が必要か、それを考察する──ああ、ある意味、科学の実験に似てるかもしれないねぇ」

俺は思わず店内を見回した。

あの青色の釉薬の掛かった茶碗とか、六角形の鉄瓶、漆塗り螺鈿細工の道具箱。細くて長い髭がどっかに引っ掛かりそうで心配になる龍の置き物、よく分からないポーズを取った小さなブロンズ像、何の道具か分からない磨かれた木で出来た謎の魚。

あれのどれがAで、どれがB? それがA’になったりZになったりすの? ──何をどうしてどうなるのか、俺にはさっぱり分からない。

さっきまでと違う意味で呆けていると、店主は言った。 

「つまり、取り扱いは慎重にってことなんだよ。例えば、ある人が気まぐれに十二神将像を買ったとしよう。その人はその頃から急に悪夢を見るようになった。話を聞いてみたら、その人はそれを飾るどころか、倉庫に打ち捨てたまま忘れてしまっていた──これはAがZになった場合だね。だから、次はその人が元のようによく眠れるようになるには、と考えるわけなんだ」

「それって、もしかして本当にあったことですか?」

そう訊ねると、さあ? と店主はまた読めない笑みを浮かべる。

「大切なのは礼儀なんだよ。その存在意義を捻じ曲げるような扱いをしてはいけないんだ、それは侮辱と冒涜を意味することになるから。その持つ意思を無視してはいけない。物には、存在を始めたときから育つ<何か>がある。……ごく微かなもので、多くは育つには至らないけど、それを意思と呼んでもいいと僕は思う。そのことをよく理解して、正しく扱えるなら──、こういう仕事をしても大丈夫でいられる」

ということはつまり、正しく扱えなかった場合は大丈夫じゃなくなるってこと?

何か怖い考えになりそうで、つい黙っていると、店主は「ちょっとややこしい言い方だったかな」と苦笑した。

「えっと、分かりやすい例を挙げると、……そうだね。絵付きの大皿みたいなものがあるとしよう。美しいからとただ飾って眺めるだけでもいいが、それが使って欲しがっているなら、やっぱり使ってやらないといけない。そうでないと機嫌が悪くなる。機嫌が悪くなると《障る》。それを取り除く方法を、そもそもそういうことが起こらないようにする方法を、考えるのがこの仕事の奥義といえる」

「……」

それを世間ではオカルトっていうんじゃないのかな、とは思ったけど、店主が珍しく真剣な顔をしてるから、黙っておいた。
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