第333話 芒の神様 12
文字数 2,033文字
「神様だったあの子のこと、調べてくれたのも伯父でした。──両親は、僕の話を聞いてもただの夢だと思っていたようだけど、伯父だけは信じてくれた。信じて、負担にならないよう少しずつ訊ねてくれて、だから僕はあのときのことを、今でも鮮明に思いだすことができるんだと思います」
「……」
俺、すっかり普通に聞いちゃってたけど、そうだよな、普通は限界状態で見た夢か、恐怖から逃避するための幻か、と思うよなぁ。子供の真久部さんはそんなに長い時間に感じなかったみたいだけど、実際には発見されるまで三日も経ってたっていうし。慈恩堂の仕事を請けるようになってから、不思議な体験をすることが多すぎて、そんな話もつるっと呑み込んでしまっていたよ……。
俺、馴染みすぎじゃない? じんわり思うも、そんなことは今はいいと、真久部さんの話に耳を傾ける。
「伯父には心配ごとがあったんです。だからこそ、あの子のことを必死になって調べてくれたんだと思うんだよ。そのときの僕には何も言わなかったけれども」
いつもの古猫の笑みは薄れて、頬に憂いの影がある。そんな真久部さんの様子に、俺はそこはかとなく不安を感じた。
「真久部さんは無事に戻ったし、誘拐犯も逮捕されたのに……?」
その不安の根は、これまで経験した不思議の中にあるような気がしたし、実際それは当たっていたようだ。
「伯父は、あの子がくれた饅頭のようなものを、僕が食べたと言ったことをとても気にしていた。何故ならそれは、黄泉竈食に通じるものだから」
「よもつへぐい?」
何だか、怖い感じの言葉に思う。
「黄泉竈食とは、あの世の食べ物を食べること。あの世のものを口にすると、現世に戻って来れなくなってしまうと言われています」
──わたくしは黄泉の国の竈で煮たものを食べてしまいました。もう現世に戻ることはできません。
それは神代の神代の昔々。根の国の暗闇の中で、伊邪那美命が伊邪那岐命に告げた言葉。
伊邪那美命は、火の神を産んだために命を落とした。妻の死を嘆き悲しんだ伊邪那岐命は、死者の国である根の国、黄泉の国にまで彼女を迎えに行ったのだが──。
「見てはいけない、と言われていたのに見てしまった。見たものの恐ろしさに伊邪那岐命は逃げ帰り、この場はおしまいです。黄泉の穢れを祓うために禊を行ったときに、また沢山の神様が生まれましたが、それはまた別のお話」
真久部さんの語ってくれたこの話は、俺も知ってはいた。日本人なら誰でもどこかで読んだり聞いたりしたことがある神話に、特に何も思ったことはない。──神様でも、死んだら生き返ることはないんだな、としか。
俺の感想に、真久部さんはうなずいてみせる。
「そう、生と死は不可逆的なもの。死者は生者になれないし、生者も死ななければ死者になれない。それは真理なんですが、この神話の中に、その生死の間を少しだけ曖昧にするものがある。それが黄泉竈食という概念です。黄泉の国の竈で煮たものを食べたから現世に戻れない、ということは、食べなければ戻れるのか? という疑問が生まれる」
「……約束事の、抜け道、的な?」
「ええ、そういうことです」
曖昧な笑み。その顔を見ながら、俺はこれまでこの人から頼まれた仕事の数々を思う。
決して蓋を開けてはいけません。
月の光を見せてはいけません。
指示通りの順番で、指示通りのことをしてください。
その場所で誰かに話し掛けられたとしても、返事をしてはいけません。
繋がってしまうから、ドアは開けて!
何でも屋さんが名前を付けてください。そうすれば護り刀になります。
……最後のはちょっと毛色が違うけど、古い道具を扱うときの約束事、俺は破ったことはない。俺が破らなくても他の誰かが、たとえば真久部の伯父さんとかが勝手に破ったりして不思議なことが起こったりするけど、俺自身は必ず約束事は守る。仕事上の指示だからっていうのもあるし、何か怖いから──。
そんな俺を、真久部さんは信用してくれている。
「道具にかかわる約束事でも難しいのに、神様にまつわる約束事はさらに難しい。そしてこの場合の、つまり黄泉竈食は、世の理でもあるわけですから、それ以上のものになる。神様でも破ることはできないのだから」
あの子がくれた饅頭を食べた僕は、あの子のいる世界、あの世の住人になっていたかもしれない、なってもおかしくなかったんだよ、と真久部さんは続ける。
「……伊邪那美命は死んでからあの世の食べ物を食べて、真久部さんは生きてるのに同じようなものを食べて、えーっと……」
あんまり考えたくなくて、そこで思考を停止したかったのに、/はっきりと/先を言われてしまう。
「約束事の抜け道。それは逆にも当てはまる。死んでも、あの世の食べ物を食べなければ戻れるかもしれない、ということは、生きていてもあの世の食べ物を食べれば、死んでしまうかもしれない、ということ」
「……」
抜け道だって約束事のひとつだ。その約束事に絡め取られ、世の理の中に捕えられたとしたら──。
「……」
俺、すっかり普通に聞いちゃってたけど、そうだよな、普通は限界状態で見た夢か、恐怖から逃避するための幻か、と思うよなぁ。子供の真久部さんはそんなに長い時間に感じなかったみたいだけど、実際には発見されるまで三日も経ってたっていうし。慈恩堂の仕事を請けるようになってから、不思議な体験をすることが多すぎて、そんな話もつるっと呑み込んでしまっていたよ……。
俺、馴染みすぎじゃない? じんわり思うも、そんなことは今はいいと、真久部さんの話に耳を傾ける。
「伯父には心配ごとがあったんです。だからこそ、あの子のことを必死になって調べてくれたんだと思うんだよ。そのときの僕には何も言わなかったけれども」
いつもの古猫の笑みは薄れて、頬に憂いの影がある。そんな真久部さんの様子に、俺はそこはかとなく不安を感じた。
「真久部さんは無事に戻ったし、誘拐犯も逮捕されたのに……?」
その不安の根は、これまで経験した不思議の中にあるような気がしたし、実際それは当たっていたようだ。
「伯父は、あの子がくれた饅頭のようなものを、僕が食べたと言ったことをとても気にしていた。何故ならそれは、黄泉竈食に通じるものだから」
「よもつへぐい?」
何だか、怖い感じの言葉に思う。
「黄泉竈食とは、あの世の食べ物を食べること。あの世のものを口にすると、現世に戻って来れなくなってしまうと言われています」
──わたくしは黄泉の国の竈で煮たものを食べてしまいました。もう現世に戻ることはできません。
それは神代の神代の昔々。根の国の暗闇の中で、伊邪那美命が伊邪那岐命に告げた言葉。
伊邪那美命は、火の神を産んだために命を落とした。妻の死を嘆き悲しんだ伊邪那岐命は、死者の国である根の国、黄泉の国にまで彼女を迎えに行ったのだが──。
「見てはいけない、と言われていたのに見てしまった。見たものの恐ろしさに伊邪那岐命は逃げ帰り、この場はおしまいです。黄泉の穢れを祓うために禊を行ったときに、また沢山の神様が生まれましたが、それはまた別のお話」
真久部さんの語ってくれたこの話は、俺も知ってはいた。日本人なら誰でもどこかで読んだり聞いたりしたことがある神話に、特に何も思ったことはない。──神様でも、死んだら生き返ることはないんだな、としか。
俺の感想に、真久部さんはうなずいてみせる。
「そう、生と死は不可逆的なもの。死者は生者になれないし、生者も死ななければ死者になれない。それは真理なんですが、この神話の中に、その生死の間を少しだけ曖昧にするものがある。それが黄泉竈食という概念です。黄泉の国の竈で煮たものを食べたから現世に戻れない、ということは、食べなければ戻れるのか? という疑問が生まれる」
「……約束事の、抜け道、的な?」
「ええ、そういうことです」
曖昧な笑み。その顔を見ながら、俺はこれまでこの人から頼まれた仕事の数々を思う。
決して蓋を開けてはいけません。
月の光を見せてはいけません。
指示通りの順番で、指示通りのことをしてください。
その場所で誰かに話し掛けられたとしても、返事をしてはいけません。
繋がってしまうから、ドアは開けて!
何でも屋さんが名前を付けてください。そうすれば護り刀になります。
……最後のはちょっと毛色が違うけど、古い道具を扱うときの約束事、俺は破ったことはない。俺が破らなくても他の誰かが、たとえば真久部の伯父さんとかが勝手に破ったりして不思議なことが起こったりするけど、俺自身は必ず約束事は守る。仕事上の指示だからっていうのもあるし、何か怖いから──。
そんな俺を、真久部さんは信用してくれている。
「道具にかかわる約束事でも難しいのに、神様にまつわる約束事はさらに難しい。そしてこの場合の、つまり黄泉竈食は、世の理でもあるわけですから、それ以上のものになる。神様でも破ることはできないのだから」
あの子がくれた饅頭を食べた僕は、あの子のいる世界、あの世の住人になっていたかもしれない、なってもおかしくなかったんだよ、と真久部さんは続ける。
「……伊邪那美命は死んでからあの世の食べ物を食べて、真久部さんは生きてるのに同じようなものを食べて、えーっと……」
あんまり考えたくなくて、そこで思考を停止したかったのに、/はっきりと/先を言われてしまう。
「約束事の抜け道。それは逆にも当てはまる。死んでも、あの世の食べ物を食べなければ戻れるかもしれない、ということは、生きていてもあの世の食べ物を食べれば、死んでしまうかもしれない、ということ」
「……」
抜け道だって約束事のひとつだ。その約束事に絡め取られ、世の理の中に捕えられたとしたら──。