第130話 鳴神月の呪物 21
文字数 2,023文字
え? え? と言いながら携帯電話帳を確かめている彼は、混乱しているようだ。
「通信履歴も消えてる? っていうか、こっちから送信したメールも消えてる……」
向こうからはいつも電話だったから受信メールは元々なかったけど、と呟きながら、彼はほかにも異常はないかとあちこちボタンを押して難しい顔をしている。
「どうですか?」
答をわかっていながら、真久部はたずねてみる。店の中を水槽のように、ひらひら泳ぐだけの金魚。毎年この時期に現れるだけで、何をするでもなく、特に目的も意思も持つものではないと思っていたけれど、どうやら違ったようだ。
この、季節限定の妖怪か妖精か物の怪かわからない幻のような存在は、けっこう彼のことを気に入っているらしい──気まぐれでお節介を焼く程度には。
そんなことを知る由もなく、首を捻っていた彼は、携帯画面から目を離さないまま真久部の問いに答える。
「どうって……、何でだろう、例のお客の連絡先と、あったはずの通信履歴だけが消えてます。さっきの着信と発信も……直前の青木のお婆ちゃんからの着信履歴は残ってるのに……」
メールの削除だってした覚えはないのに、釈然としない表情で呟く。
「俺、顧客宛ての作業報告みたいなメールは、念のためCCにして家 のノートパソコンにも送信してるんですけど……まさか、そっちも消えてるのかな……?」
いや、ほんとまさかな、と最後のほうは自信なさそうに口の中で消える。だが真久部は、彼のその言葉に、金魚がいったん見えなくなるほど深く潜ったらしき理由を悟った。多分きっと……。
「消えてるだろうね」
「へ?」
ぼけっとした顔でこちらを振り返る。そんな彼に、真久部はにっこりと笑みを返してやった。
「心配しなくていいよ、何でも屋さん。ウイルスとかの仕業じゃないから」
それ以外はどうにもなってないはずだよ、と請け合っておく。
「だいたいさっき、連絡入れるの嫌だって自分でも言ってたじゃないですか。もう必要ないでしょ?」
「え、あ、まあ……そうなんですけど……」
探し物の継続はお断りする旨、出来ればはっきりと告げておきたかった、と彼は言う。
「今後のおつき合いはないにしろ、そういうのは仕事のけじめというか──」
真面目すぎる彼に、真久部は溜息が出る思いがした。
「けじめをつけないといけないのは、本当はあちらのほうだけどね。だけど、きっと今はそれどころじゃないはずだから──」
彼の眼をじっと見つめ、静かに告げる。
「もう、放っておきなさい」
気迫に呑まれたのか、かくかくと頷くだけになった彼に、真久部も大きく頷いてみせる。視界の隅で、赤い金魚がひらりと宙返りしているのが見えた。
「……」
夏の間だけ現れては、ただ泳ぐだけだった金魚。店の古道具のまとう気を食べるわけでもなく、お客に悪さをするわけでもない。そんなただの動くインテリアのような存在だったものが、苦手な熱いものが入った茶碗があるにもかかわらず、わざわざ近くに寄ってきて、頼みもされないのに、彼の憂いを断ってくれた。
戻って来たら、ほんの少しとはいえ形に変化があったあたり、呪具解きの法に彼を利用しようとした相手は、やはりそうとう性質が悪かったのだと改めて感じる。
金魚には今度、礼がわりに古硝子のいい出物があったら仕入れてやろう。そう真久部は思った。アンティークの薄い水色、製作過程で気泡を閉じ込めたような金魚鉢。それとも、手延べ硝子の入った建具はどうだろう? きらきらと複雑に歪んだ硝子に、あの金魚なら喜んで飛び込みそうだ。
「あの……俺もせどり屋さんのように、御祓いに行ったほうがいいでしょうか?」
オリエント風の薄い青緑硝子の壺なんかも気に入りそうだなぁ、と真久部が考えていると、彼が不安そうにたずねてくる。
「うーん、何でも屋さんはそんなに心配いらないよ」
護りも強ければ、うちの店の道具たちにも気に入られてるし、という言葉は飲み込んでおく。──物の怪というより、どうやら神様のほうに近いかもしれない金魚まで、彼を気に入っているようだし。
「取り敢えず、今日のところはそれを食べたんだから大丈夫」
“糸”を“切って”すぐ、彼に食べさせた菓子のからを示す。六月の魔除けのお菓子、“水無月”。縁起物も馬鹿にならない。こういう時にこそ必要なものだと真久部は思う。
「小豆煎餅も食べたでしょ?」
小首を傾げて微笑んでみせると、やっぱりわざとらしかったのか、彼が引くのがわかった。真久部さんの、そういう意見は信用しますけど、と言いながらも微妙に逃げ腰な彼に、ちょっとだけ憎らしさを感じる。
「ねえ、何でも屋さん」
「な、何ですか?」
笑顔が口調が怖いよ、と声に出ているのも気づかず、彼はさらに腰を引く。
「昔話の老人って、結局どうなったと思います?」
「通信履歴も消えてる? っていうか、こっちから送信したメールも消えてる……」
向こうからはいつも電話だったから受信メールは元々なかったけど、と呟きながら、彼はほかにも異常はないかとあちこちボタンを押して難しい顔をしている。
「どうですか?」
答をわかっていながら、真久部はたずねてみる。店の中を水槽のように、ひらひら泳ぐだけの金魚。毎年この時期に現れるだけで、何をするでもなく、特に目的も意思も持つものではないと思っていたけれど、どうやら違ったようだ。
この、季節限定の妖怪か妖精か物の怪かわからない幻のような存在は、けっこう彼のことを気に入っているらしい──気まぐれでお節介を焼く程度には。
そんなことを知る由もなく、首を捻っていた彼は、携帯画面から目を離さないまま真久部の問いに答える。
「どうって……、何でだろう、例のお客の連絡先と、あったはずの通信履歴だけが消えてます。さっきの着信と発信も……直前の青木のお婆ちゃんからの着信履歴は残ってるのに……」
メールの削除だってした覚えはないのに、釈然としない表情で呟く。
「俺、顧客宛ての作業報告みたいなメールは、念のためCCにして
いや、ほんとまさかな、と最後のほうは自信なさそうに口の中で消える。だが真久部は、彼のその言葉に、金魚がいったん見えなくなるほど深く潜ったらしき理由を悟った。多分きっと……。
「消えてるだろうね」
「へ?」
ぼけっとした顔でこちらを振り返る。そんな彼に、真久部はにっこりと笑みを返してやった。
「心配しなくていいよ、何でも屋さん。ウイルスとかの仕業じゃないから」
それ以外はどうにもなってないはずだよ、と請け合っておく。
「だいたいさっき、連絡入れるの嫌だって自分でも言ってたじゃないですか。もう必要ないでしょ?」
「え、あ、まあ……そうなんですけど……」
探し物の継続はお断りする旨、出来ればはっきりと告げておきたかった、と彼は言う。
「今後のおつき合いはないにしろ、そういうのは仕事のけじめというか──」
真面目すぎる彼に、真久部は溜息が出る思いがした。
「けじめをつけないといけないのは、本当はあちらのほうだけどね。だけど、きっと今はそれどころじゃないはずだから──」
彼の眼をじっと見つめ、静かに告げる。
「もう、放っておきなさい」
気迫に呑まれたのか、かくかくと頷くだけになった彼に、真久部も大きく頷いてみせる。視界の隅で、赤い金魚がひらりと宙返りしているのが見えた。
「……」
夏の間だけ現れては、ただ泳ぐだけだった金魚。店の古道具のまとう気を食べるわけでもなく、お客に悪さをするわけでもない。そんなただの動くインテリアのような存在だったものが、苦手な熱いものが入った茶碗があるにもかかわらず、わざわざ近くに寄ってきて、頼みもされないのに、彼の憂いを断ってくれた。
戻って来たら、ほんの少しとはいえ形に変化があったあたり、呪具解きの法に彼を利用しようとした相手は、やはりそうとう性質が悪かったのだと改めて感じる。
金魚には今度、礼がわりに古硝子のいい出物があったら仕入れてやろう。そう真久部は思った。アンティークの薄い水色、製作過程で気泡を閉じ込めたような金魚鉢。それとも、手延べ硝子の入った建具はどうだろう? きらきらと複雑に歪んだ硝子に、あの金魚なら喜んで飛び込みそうだ。
「あの……俺もせどり屋さんのように、御祓いに行ったほうがいいでしょうか?」
オリエント風の薄い青緑硝子の壺なんかも気に入りそうだなぁ、と真久部が考えていると、彼が不安そうにたずねてくる。
「うーん、何でも屋さんはそんなに心配いらないよ」
護りも強ければ、うちの店の道具たちにも気に入られてるし、という言葉は飲み込んでおく。──物の怪というより、どうやら神様のほうに近いかもしれない金魚まで、彼を気に入っているようだし。
「取り敢えず、今日のところはそれを食べたんだから大丈夫」
“糸”を“切って”すぐ、彼に食べさせた菓子のからを示す。六月の魔除けのお菓子、“水無月”。縁起物も馬鹿にならない。こういう時にこそ必要なものだと真久部は思う。
「小豆煎餅も食べたでしょ?」
小首を傾げて微笑んでみせると、やっぱりわざとらしかったのか、彼が引くのがわかった。真久部さんの、そういう意見は信用しますけど、と言いながらも微妙に逃げ腰な彼に、ちょっとだけ憎らしさを感じる。
「ねえ、何でも屋さん」
「な、何ですか?」
笑顔が口調が怖いよ、と声に出ているのも気づかず、彼はさらに腰を引く。
「昔話の老人って、結局どうなったと思います?」