第114話 鳴神月の呪物 5

文字数 1,945文字

それでも老人に荷運びを頼まれれば、男はそれを断ることはなかった。男が荷を運ぶと誰もが喜んだし、老人も感謝してくれる。男は手間賃を得られるし、これが旅の商人から聞いた三方よしというものかと思った。

夢から逃れた浅い眠りの中でうつらうつらしながら、貯まった手間賃で新しい鎌と鍬を買おうか、いや、それとももう少し貯めて牛を買おうかと、そんなささやかな希望を支えに、すっかりと弱った身体を宥めながら、男がやっとの思いで日々の仕事をこなしていた頃だった。

老人からの荷物が、村の全ての家に行き渡った。

その朝、いつものように、男は粗末な木戸の隙間から漏れる日差しに目を覚ました。怠い身体を起こし、外の井戸で顔を洗おうと戸口からまろび出る。よろよろしながら落ち窪んだ眼でふと見上げると、空はぺったりと青く晴れていた。雲ひとつ無く、鳥も飛ばない。静かで、風はそよとも吹かず、虫の羽音も聞こえない。陽は眩しいのに、ちっとも暖かさを感じられず、かといって寒いのとは違う。

とろりと静まり返った山の池の、水鏡に映った景色に閉じ込められたようだと、男はぼんやり考えた。

──いや、これは虚ろだ。

不意に、あの老人に似た声が男の頭の中に響いた。

──虚ろは真なる空、真なる空は、虚ろなる故に力を持つ。
 その力は強大ゆえ、焦点を結べば一瞬にして──。

男には意味が分からなかったが、その必要も無かっただろう。

声が終わると同時に、遠い遠い空から何かが降って来た。男が気づく暇も無く、降って来た何かは男の身体に吸い込まれるように消え、直後に男の身体も消え失せる。

その瞬間。

男の立っていた場所にどっと風が雪崩れ込んだ。一気に膨れ上がった暴風は村全体に及び、巨大な何かがのた打ち回るように、圧倒的質量をもって吹き荒れる。それはほんの刹那か、それとも永劫のことだったのか。

始まったと同様に、だし抜けに風が熄んだ。死のような静けさが訪れる。消えた男の立っていた地面は擂鉢状に抉れ、底にはただの黒っぽい石がごろりと転がっているだけだった。

移り変わる日差し以外に動くものの無い世界に、かの老人が大八車を牽いて現れる。老人は恐れることもなく擂鉢の底を覗き、石を見つけるとうれしそうに笑った。いそいそとそれを年寄りとも思えない力で引き上げると、荷台に乗せて荒縄でしっかり縛りつけ、重くなった車を牽きながら何処とも無く去って行った。

こうして、男の住んでいた村は滅んでしまった。男が消えたと同時に、全ての村人が髪一筋も残さず消滅してしまったことを、誰も知らない──。








「何だか不気味な話ですね……」

真久部が話している間に、促されてなんとか“水無月”を食べきっていた何でも屋さんが、ぽつりと呟いた。

「その石は、鉄隕石だったと伝えられています」

空になった彼の茶碗に新しく茶を注ぎながら、真久部は付け加える。

「老人の目当てはそれだったんですよ」

自分の茶碗にも注ぎ、真久部は喉を潤した。喋るとやっぱり喉が渇くな、といつの間にかまた現れてひらひらと身を翻しながら泳ぐ金魚を視界の隅に収めながら思う。金魚もさすがに熱い茶は苦手なようで、こちらには寄ってこなかった。

「ええ……そんな手段? で手に入れたもの、どうするつもりだったんでしょうね……」

まさか究極の石マニア? 飾るの? と彼は気味悪そうだ。まあ、普通はなかなか思いつかないだろうな、と思いながら、真久部は彼の疑問に答えてやる。

「刀鍛冶に頼んで、刀剣に仕立てさせたそうだよ。大小一振りずつ」

「あ、ああ……鉄ですもんね。刀かぁ……」

気が抜けたように呟いている。

「空から降って来た石で作った刀って、普通ならロマンを感じるところだけど、それは……」

そう言って口を噤む彼の複雑そうな表情に、まともな人間の感性を感じて真久部は思わず笑みを浮かべてしまう。

「ロマンを感じる方向性が違うんでしょう──。この老人は陰陽師崩れ、あるいは流れの拝み屋か呪術師だったと伝わっています。まあ、今で言うマッド・サイエンティストみたいなものですね」

「マッド・サイエンティスト?」

そんな昔に科学者? と彼は不思議そうだ。

「陰陽学はこの宇宙の森羅万象を陰陽の観点から研究する学問だからねぇ。極めようとする者は深い学識を要求される。現代の量子力学にも通じるものがあるというし、陰陽師というのは、昔の科学者といっても間違いではないですよ」

これが西洋だと錬金術師になるんですよね、と続けると、彼は「あ、そういえば、そうかも」とふんふん頷いている。こういうところがこの人は素直だな、と真久部は心和む思いがした。
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