第46話 合歓の木の夢 2
文字数 2,065文字
「あれ? 珍しいね、何でも屋さん」
俺は慈恩堂に来ていた。あの場所からは駅裏のこの店が一番近かったんだ。顔を見て驚いた店主は、擦り剥けた腕を見てさらに目を見張った。
「その怪我……。どうしたの?」
「いや、その……」
当然の質問。だけど何と言っていいのか分からなくて、俺は言いよどむ。ふう、と息を吐き、店主は持っていたハタキを置いて、帳場の向こうのドアに向けてひらひらと手を振ってみせた。
「理由は後で。まず、その傷の手当をしようか。深くはないけど範囲が広い。先にそこの手洗いで傷口を洗ってきてくれるかな」
力なく頷いた俺はその言葉に従ってのそのそ足を動かし、狭いけど機能的に出来てる清潔なトイレの洗面台で傷口を洗った。浅い、けれど広範囲に渡った擦過傷。傷口を覆って薄く固まっていた血が水に溶ける。白い陶器の洗面盤を塗らしていく、薄紅色。それは、まるで合歓の花が水に落ちたみたいに……。
そう思った瞬間、俺は無意識に洗面台から後ずさっていた。反射的に目をやった鏡に映る自分の顔が、酷く青ざめている。どうしよう、とか思う間もなく、店主がドアをノックしてきた。
「洗い終わった? それならそろそろ出てきて手当てさせてくれるかな」
開けるよ、と一声掛けてから、店主は俺に白い清潔なタオルを差し出してきた。
「ほら、遠慮なく拭いて。それからこっちに座って。まず消毒するから」
導かれるまま帳場の畳の間に上がると、店主が手当てをしてくれた。血は止まっていたけど、消毒薬に浸した綿花でなぞられると薄い赤が付く。それを見るのが嫌で、俺は傷口から目を背けた。
「沁みる?」
そう聞いてくれるけど、あんまり痛みは感じない。首を振ると、店主は続けて傷薬を塗ってくれた。抗炎症作用のある軟膏だという。そのままだとぺたぺたして困るからと、リント布という白いフェルトみたいなもので傷口を保護し、さらに包帯を巻いてくれる。
「大袈裟に見えるかもしれないけど、擦り傷とはいえ広範囲だったからね。これくらいしておいたほうが治りが早いんだ。薬を塗っただけだとすぐ取れちゃうし、瘡蓋になった傷口が乾いて引きつって痛いしね」
そんなことを言ってくれる店主に、ありがとうございます、と呟いて、俺はただ店内の古時計たちが時を刻む音を聞いていた。
カッチカッチカッチ……ボーンボーン……
「何でも屋さん」
呼びかけられて顔を上げると、目の前に水羊羹を載せた盆。いつの間にか小さなちゃぶ台が広げられて、そこにお茶の用意が出来ていた。
「この丁稚羊羹、美味しいんですよ。どうぞ」
手に取るように勧められて、俺はそのぷるんと小豆色をした羊羹を口に入れた。つるり、と喉を滑っていく。……あ? 甘い。甘いけど甘すぎじゃなくて、んー、何だろ……美味い。そう、とてもおいしいんだ……水羊羹と丁稚羊羹って同じよう見えるけどどう違うんだろう。おはぎとぼた餅みたいなもんだろうか。
そんなことを考えながら、つるり、つるりと唇から舌の上、喉を滑っていく冷たい甘みを感じていた。
「もう、大丈夫ですね」
「え?」
俺は夢から覚めたように店主の顔を見た。彼の勧めてくれる涼しげなグラスには、きれいな緑色をしたお茶が揺れている。
「何でも屋さん、今日、お昼は食べた?」
唐突に訊ねられて、俺は言葉に詰まった。
「昼? 昼は、まだ……」
店の時計を見る。そろそろ午後の三時を回ろうとしている。
「まだ、食べてなかったです……」
そういえば、丁稚羊羹を食べてから腹がにわかに空腹を思い出したようだ。
「そう」
店主は頷く。
「やっぱりね」
俺はぽかんとその静かな表情を見た。
「あなた、ひだる神に取り憑かれてたんだよ、何でも屋さん」
「ひだるがみ?」
何それ。
「もうだいぶ前だけど、山に登る時の心得みたいなこと話したのを覚えてる?」
俺は頷いた。装備を怠らないのは当然として、えーと。
「登山道入り口のお地蔵さんには、必ず挨拶してから山に入るんですよね。お供え物とかして。それから、弁当は全部食べるんじゃなくて一口残しておくとか、でなくてもすぐ取り出せるようにポケットに飴とかチョコレートとか入れておいたほうがいいとか」
吸わなくても煙草を持ってるといいとか、何か変なものを見ても見ないふりで通り過ぎるようにとか、なんか色々聞いた覚えがある。本格的な登山なんてしませんよ、と言ったんだけど、「覚えていて損は無いから」と細々と聞かされたっけ。
「僕は経験無いんだけど、顧客の中に山登りが趣味だという人がいて、リアルな体験談を聞いたことがあるんだよ」
真剣な顔で店主は言う。
「その人はそれなりにベテランで、その日選んだ道は何度も歩いたことがあり、良く知っているコースだったらしい。それなのに、いつものように歩いているうちに急に身体が怠くなって、手足が重くて動けなくなり、意識まで飛びそうになったんだそうだ」