第352話 鏡の中の萩の枝 3
文字数 2,283文字
「……」
それは違う、と俺は首を振る。
「一方通行なんてことないです、そうじゃないですよ。娘に心配されて、俺はうれしいです。お父さんだってうれしいんですよ。うれしいから、心があったかくなるんです。幸せなんですよ。だからあったかい笑顔を向けられる。鳥居さんだって、お父さんに心配されてうれしいでしょう?」
心配して、心配されて。あたたかさをわけあってるんです、力説すると、鳥居さんはちょっと微笑んだ。
「幸せなのかな、僕も、父も、何でも屋さんも」
「もちろんです。どうでもいい人の心配なんてしないじゃないですか。しても、すぐに日常に紛れてしまう……。だけど、大切な人のことは、忘れたりしないでしょう? 心配って、ときどき苦しくなるけど……でも、そうやって誰かを思うのは、幸せなことだと思うんですよ」
たとえ、それが思い出の中のことでも──俺は、俺と同じ顔の弟のことを思い出す。もう心配することもできないけれど、その記憶が俺の心の中をあたたかくしてくれる。
「──幸せなことが、俺、楽しいです! 幸せを楽しむことが、あー、生きる歓びってやつなのかな、なんて。あはは……」
気障な言葉に自分で照れて尻すぼみ、俺はひとりで空笑い。でも、鳥居さんは真剣な顔で荒ぶる萩を見ている。
「……楽しむって、難しいことじゃなかったんですね。父は心配を楽しんで、僕も心配を楽しんで」
楽しさを自覚してなかったってことなのかな、とやっぱり難しい顔になる。
「えっとほら。元ネタは何か知らないけど、こういう言葉があるじゃないですか。『Don't think, feel』って。そういうことだと思うんですよ」
考えるな、感じろって、なかなか深い言葉だと思う。
「この爆発した萩だって、きっと何も考えずに枝を伸ばしてると思うんですよね……こっちのほうが伸びやすいな! とか感じて、だんだんこんなふう、に──」
鳥居さんがいきなり吹きだしたから、おれはびっくりした。
「爆発……! たしかに。この萩を見て、何て表現したらいいかわからなかったんですが、そうですね、爆発してますよね」
ウケてる。笑いのツボに入ったみたい。そっか俺、コレ見たら誰でも爆発してると思うと思ってたけど、そうでもないんだな……。でも、鳥居さんが楽しそうだから、いいや。
「あはは。枝の一本だけ見てたら、楚々とした秋の風情、って感じですけどね」
自分で言った言葉に、ようやく俺はここに来たそもそもの理由を思い出した。
「えっと、今日こちらに伺ったのは、お届け物があって。えっと、こちらの──」
斜め掛けしてる、繊細なものを持ち運ぶ用にしてるポーチを開けて、俺は袱紗包みを取り出した。
「萩の絵柄の手鏡です。預かるときに確認させていただきましたが、本当に楚々としていて、こっちの萩と同じものとは思えないかも」
しれません、と言いながら鳥居さんを見ると、何故か驚いたような、信じられない、といったような、複雑な表情をしている。
「萩の、手鏡ですか……?」
「ええ。あれ? ご存知のものじゃないんですか? 古い蒔絵で、修理にはお金がかかったと聞いてますけど」
鳥居さんの様子に首を捻りながら、俺は包みを手渡そうとする。
「まさか──、だってあれは空き巣に盗まれて、そのまま……」
震える手が危なっかしい。もしかして、これのこと知らなかったのかな、誰かのサプライズ? とか思いつつも、落としたら危ないので、俺は袱紗に包んだまま持ち手を持ち、絵柄が見えるように開いて見せた。
「……お母さんの、鏡」
信じられないものを見るように、目が見開かれる。全身の神経がこの鏡に注がれているかと思うほど。
「これと……、お母さんの笑顔だけ覚えてる。きれいでしょう? って僕に持たせて見せてくれた。四歳の僕には重かった。母が支えてくれて、ほら、ここに秋の蝶がいるのよ、って萩の花を指さして──」
「亡くなったお母様のものだったんですか! 盗まれたって、災難でしたね……。でも、戻ってきて良かったですね。俺、何も事情を知らずに預かってきただけなんですが、じゃあ、これはお父さんのサプライズかな?」
修理には時間がかかったと聞いてるし、お父さんが倒れる前にどこかの古道具市ででも見つけて、慈恩堂に依頼してたものだったのかも。
「この、背面の蒔絵の部分がかなり破損していて、それを直すのが大変だったと聞いています。特にこの蝶の部分の、螺鈿細工のうす黄色い色を再現するのが難しかったと──、そう、翅の片方だけが残っていて、その色に合う貝がなかなか見つからなかった、ということでした」
「……」
鳥居さんは、震える指で蝶の部分に触れる。
「でも、鏡は割れも、ヒビも欠けも無かったそうです。幼い鳥居さんとお母さんを映した、そのまんまの鏡ってことになりますね。不幸中の幸いっていうのも変ですけど……」
割れてなくてよかったです、と手鏡を表返してみせると、古めかしいけどきちんと磨かれた鏡面が現れる。俺のほうからは、ちょうど荒ぶる萩の、楚々とした枝だけが映って見えた。反射した光が、キラキラと辺りに散る。
「鳥居さん?」
鏡を凝視したまま、鳥居さんは動きを止めた。
「鏡の中にも萩が……、お母さん……? お母さんそこにいたの? お母さん、おかあさん、おかあさーん!」
母を求める子供のままの声で、必死に呼びかける様子に驚く間こそあれ、今度はその姿がふっと消え失せ、俺は腰が抜けそうになった。
なんで? どうして? 鳥居さんはどこ行った?
思わず落としそうになった手鏡、それはただ、真っ青な俺の顔と、風に揺れる萩の枝を静かに映しているだけだった。