第65話 秋の夜長のお月さま 3
文字数 2,236文字
一瞬。
タールのような影が、沸騰したミルクみたいにぶわっと膨らんだかと思うと、<俺>はその中に呑み込まれてしまった。……次のドジョウを探す仕草をしながら。
──輝くような笑顔だったな、<俺>。
蠢きながらなおもその場に蟠る影を見ながら、恐怖のあまりどこか麻痺した頭でそんなことを思う。俺の見たことのあるどじょうすくいの踊り手は、いつでも楽しそうな笑顔をキープしてたから、そんなものなのかもな……。ああ、だけど、やっぱり次は俺がやられる番なのか……。
刹那。
あの銀色の魚が急降下してきた。月を飛び越すほど高い空を泳いでいたはずなのに、いつの間に? 近づいてくるにつれて、口のあたりがぐーっと伸び、頭には鹿のように枝分かれした角が、体は長く長く伸びて──。
竜?
そう思った時にはもう、蠢く影を大きな口でひと呑みに、そいつが掻っ攫っていくところだった。限りなく地面に近づいたはずなのに、重さなんか全く感じさせず、再び空を駆け上がる銀色の竜。
タッチ・アンド・ゴー?
あまりの妙技にそんな言葉が浮び、つい先ほどまでの恐怖を一瞬忘れかけた時。
────!!!
竜の喉の奥から逃れようとうねくる影が、咆哮した。
どろりとしたものを、無理やり耳に流し込まれるような、声ともいえない異様な音。その圧倒的な圧力に、心臓を冷たい手でぎゅっと鷲づかみにされたように苦しくなり、身体の強張りが酷くなる。気が遠くなりかける。流れ込む脂汗ににじむ目をそれでも必死に開けていると、口中でのたうつ影を、竜が造作も無いように文字通りバリバリと噛み砕き、今度こそごくんと呑み込むのが見えた。とたんに霧消する音圧。後にはただ静寂が広がるだけ。
「……」
今、目の前で起こった出来事がよく理解出来ず、俺はただぼんやりと竜の姿を眺めていた。悠々と空を舞い、月光満ち満ちる天と地を縫うように、その動きは自由自在だ。あー、目も銀色なんだなー、って、どうしてこの距離から目の色が?
下から眺める俺と、上から見つめる竜の目が、合う。
そのとたん、竜は銀色の奔流となり、空から迸り落ちてきた。え? え? え? とわけの分からないまま脳内大混乱してる間に、落ちてきた竜は俺が斜め掛けしてる鞄の中に吸い込まれ、消えた。
「え?」
意図せず声が出て、ようやく俺は身体が動くようになったことに気づいたが。
「うわっち!」
右手に挟んでた煙草を慌てて放り出した。もう根元近くまで燃え尽きていて、危なかった。地面に落ちてもまだ煙を上げているそれを見つめながら、途方に暮れる。
「……何だったんだ?」
──りーりーりー
──ちんちろちんちろ
──ガチャガチャガチャ
いつの間にか、虫たちの合唱も復活してる。
──ガチャガチャガチャガチャ
──ちろりんちろりろちろりんちりん
──りーりーりー
周囲の様子も元に戻り、さっきまでの、かすかな波紋に揺れる湖の底から月を見上げるような、そんな不思議な感じはしない。──あれが本当に湖だったら、俺溺れてるじゃん。
意味も分からず腑に落ちないが、それは一旦置いておくことにして、フィルターだけに燃え尽きた吸殻を拾おうと立ち上がりかけた。と、その拍子に、店主の指示書が膝から落ちる。
──まず、煙草を吸ってみてください。理由など考えてはいけません。
そうだよ! 煙草吸えっていうから吸ってみたら、わけの分からない事態に……。店主のあの噓くさい笑みを思い出し、ムカッとする気持ちをなんとか抑え、それを拾う。続きを読んでみなければ。
── 一本吸い終えたら、とりあえず深呼吸してください。あ、吸殻は拾っておいてくださいね?
「……」
そっち後回しにして、先に足元の指示書を拾っただけだし。落ちていた吸殻を、俺はゴミ袋代わりに持ってるジプ○ックの小袋に入れた。
──次に、日本酒を取り出してください。
ふーん、それから?
──きみが座っていたお地蔵様の
「え!」
俺は慌てて振り返った。これお地蔵さん? 俺、そんな罰当たりしてたのか?
「マジか……」
月明かりに透かしてよくよく見ると、本当にお地蔵様だった。座る前はただの石に見えたのに……。
「すみません! そんな無作法、するつもりなかったんです……!」
俺は平謝りをした。いや、ダメだろ俺……。お地蔵さん、怒ってないかな? すみません、マジすみません。
──きみが座っていたお地蔵様の前にある、石の茶碗の埃を払って、そこにお酒を注いでください。
え、茶碗なんかあった? と思ったら、あった。お地蔵さんと一体化してるように見える、拳ほどの大きさの石がそれだ。慌ててそれを手に取り、中に溜まってた砂とか枯葉とかを掻き出す。ウエストポーチから引っ張り出したハンドタオルも使って、丁寧に埃や泥を拭い取る。
きれいになった茶碗に、なみなみと日本酒を注いでお地蔵さんに供えた。
──お酒を注いだら、守ってくださったことを感謝してお礼を申し上げてください。
守ってくださったって、……、え?
──心当たりがあるでしょう?
あるけど……。
──そのお地蔵様は凄腕の手妻師と伝えられています。きみはその恩恵に与ったはずです。
手妻師……マジシャンのことか? じゃあ、煙草のリアル煙幕をバックにどじょうすくいを踊ってた<俺>は、このお地蔵さんの幻術だったっていうのか……?
タールのような影が、沸騰したミルクみたいにぶわっと膨らんだかと思うと、<俺>はその中に呑み込まれてしまった。……次のドジョウを探す仕草をしながら。
──輝くような笑顔だったな、<俺>。
蠢きながらなおもその場に蟠る影を見ながら、恐怖のあまりどこか麻痺した頭でそんなことを思う。俺の見たことのあるどじょうすくいの踊り手は、いつでも楽しそうな笑顔をキープしてたから、そんなものなのかもな……。ああ、だけど、やっぱり次は俺がやられる番なのか……。
刹那。
あの銀色の魚が急降下してきた。月を飛び越すほど高い空を泳いでいたはずなのに、いつの間に? 近づいてくるにつれて、口のあたりがぐーっと伸び、頭には鹿のように枝分かれした角が、体は長く長く伸びて──。
竜?
そう思った時にはもう、蠢く影を大きな口でひと呑みに、そいつが掻っ攫っていくところだった。限りなく地面に近づいたはずなのに、重さなんか全く感じさせず、再び空を駆け上がる銀色の竜。
タッチ・アンド・ゴー?
あまりの妙技にそんな言葉が浮び、つい先ほどまでの恐怖を一瞬忘れかけた時。
────!!!
竜の喉の奥から逃れようとうねくる影が、咆哮した。
どろりとしたものを、無理やり耳に流し込まれるような、声ともいえない異様な音。その圧倒的な圧力に、心臓を冷たい手でぎゅっと鷲づかみにされたように苦しくなり、身体の強張りが酷くなる。気が遠くなりかける。流れ込む脂汗ににじむ目をそれでも必死に開けていると、口中でのたうつ影を、竜が造作も無いように文字通りバリバリと噛み砕き、今度こそごくんと呑み込むのが見えた。とたんに霧消する音圧。後にはただ静寂が広がるだけ。
「……」
今、目の前で起こった出来事がよく理解出来ず、俺はただぼんやりと竜の姿を眺めていた。悠々と空を舞い、月光満ち満ちる天と地を縫うように、その動きは自由自在だ。あー、目も銀色なんだなー、って、どうしてこの距離から目の色が?
下から眺める俺と、上から見つめる竜の目が、合う。
そのとたん、竜は銀色の奔流となり、空から迸り落ちてきた。え? え? え? とわけの分からないまま脳内大混乱してる間に、落ちてきた竜は俺が斜め掛けしてる鞄の中に吸い込まれ、消えた。
「え?」
意図せず声が出て、ようやく俺は身体が動くようになったことに気づいたが。
「うわっち!」
右手に挟んでた煙草を慌てて放り出した。もう根元近くまで燃え尽きていて、危なかった。地面に落ちてもまだ煙を上げているそれを見つめながら、途方に暮れる。
「……何だったんだ?」
──りーりーりー
──ちんちろちんちろ
──ガチャガチャガチャ
いつの間にか、虫たちの合唱も復活してる。
──ガチャガチャガチャガチャ
──ちろりんちろりろちろりんちりん
──りーりーりー
周囲の様子も元に戻り、さっきまでの、かすかな波紋に揺れる湖の底から月を見上げるような、そんな不思議な感じはしない。──あれが本当に湖だったら、俺溺れてるじゃん。
意味も分からず腑に落ちないが、それは一旦置いておくことにして、フィルターだけに燃え尽きた吸殻を拾おうと立ち上がりかけた。と、その拍子に、店主の指示書が膝から落ちる。
──まず、煙草を吸ってみてください。理由など考えてはいけません。
そうだよ! 煙草吸えっていうから吸ってみたら、わけの分からない事態に……。店主のあの噓くさい笑みを思い出し、ムカッとする気持ちをなんとか抑え、それを拾う。続きを読んでみなければ。
── 一本吸い終えたら、とりあえず深呼吸してください。あ、吸殻は拾っておいてくださいね?
「……」
そっち後回しにして、先に足元の指示書を拾っただけだし。落ちていた吸殻を、俺はゴミ袋代わりに持ってるジプ○ックの小袋に入れた。
──次に、日本酒を取り出してください。
ふーん、それから?
──きみが座っていたお地蔵様の
「え!」
俺は慌てて振り返った。これお地蔵さん? 俺、そんな罰当たりしてたのか?
「マジか……」
月明かりに透かしてよくよく見ると、本当にお地蔵様だった。座る前はただの石に見えたのに……。
「すみません! そんな無作法、するつもりなかったんです……!」
俺は平謝りをした。いや、ダメだろ俺……。お地蔵さん、怒ってないかな? すみません、マジすみません。
──きみが座っていたお地蔵様の前にある、石の茶碗の埃を払って、そこにお酒を注いでください。
え、茶碗なんかあった? と思ったら、あった。お地蔵さんと一体化してるように見える、拳ほどの大きさの石がそれだ。慌ててそれを手に取り、中に溜まってた砂とか枯葉とかを掻き出す。ウエストポーチから引っ張り出したハンドタオルも使って、丁寧に埃や泥を拭い取る。
きれいになった茶碗に、なみなみと日本酒を注いでお地蔵さんに供えた。
──お酒を注いだら、守ってくださったことを感謝してお礼を申し上げてください。
守ってくださったって、……、え?
──心当たりがあるでしょう?
あるけど……。
──そのお地蔵様は凄腕の手妻師と伝えられています。きみはその恩恵に与ったはずです。
手妻師……マジシャンのことか? じゃあ、煙草のリアル煙幕をバックにどじょうすくいを踊ってた<俺>は、このお地蔵さんの幻術だったっていうのか……?