第300話 疫喰い桜 14

文字数 2,755文字

飄々と、何でもないことのように伯父さんは言う。でも、俺はただただ恐ろしい。知らないあいだに自我が乗っ取られてしまうなんて──。

「“鬼”に操られないためには、どうしたらいいんでしょう……?」

したい、したい。
何かをしたい。

ゲームセンター行きたい。遊園地で遊び回りたい。ショッピングを楽しみたい。スポーツしたい。ライブ行きたい。飲み会したい。美味しいものを食べに行きたい。旅に出て、綺麗な景色を見たい──。

そんな、誰にでもある、ささやかな望み──欲。

だけど、今は多くの人ががそれを抑えてる。<面倒なことはしたくない>という、怠慢という名の欲望すらも堪えている。

風邪でもないのにマスクをするのも、自粛をするのも、強制されてるわけじゃない。罰則だってない。だけど、この恐ろしい疫病に対抗するために、ほとんどの人が自主的にそれをしている。自分だって感染したくないけど、自分のせいで誰かが感染するのも嫌だ。そう思うから、耐える。我慢する。

同調圧力という言葉もあり、そういう側面もあるとは思う。それでも、多くの日本人の行動原理は、「人様に迷惑を掛けたくない」だ。そして、「情けは人の為ならず」。回り回って誰かのため、自分のため、みんなのためになっている。お互い様、そんな言葉だってあるんだ──。

「何でも屋さんは、One for all, all for one.という言葉を知ってるかな?」

たずねておいて、ぼーっとしていたところにたずね返されたので、ちょっと焦った。

「あ、はい! 一人は皆のために、皆は一人のために、って意味ですよね。ラグビーの精神」

「日本では、そうなっているねぇ。でも、それって本当はキリスト教の宗派争いがきっかけになって出来た成句らしいよ」

「……」

そうなの? 全然知らなかった。

俺の心の声が聞こえたみたいに、伯父さんが軽く含み笑う。目が楽しそうで、本当にもう。この、意地悪仙人め! ──なんて、俺のちょっとした苛立ちなんか、完全スルーで先を続けてくれる。

「そんなわけで、本来の意味は少し違うんだ。『一人は皆のために、皆は一つの目的のために』というのが正しい。ラグビーでいえば、トライ(勝利)という目的に向けてひとりひとりがそれぞれの役割を果たす、ということになるのかかな?」

「……大して違わないような」

「そうかい? よく考えてごらんよ」

「ええ? えーっと……」

わからん。俺、英語得意じゃないし。でも、訳文のほうは──。

「あー、一つの目的のために、ってことは、互いの目的が合致しない場合は、互いに協力はしない、ってことになる、のかなぁ……そう解釈すると、けっこう違うのかも」

いや、でも、うーん、と唸っていると、伯父さんが「ほらね?」と言う。

「誤訳レベルで違うだろう? 私は、One for all, All for one.を最初に訳した人は、意味の違いをちゃんとわかってたんじゃないかと思っているよ。敢えて『一人は皆のために、皆は一人のために』と翻訳したんだ。だって、そのほうが()()()()()()()()()()()()()()()()

何でも屋さんもそう思わないかい? といつもの怪しい笑みで問われ──、俺はハッと腑に落ちた。

「確かに。俺はそっちのほうが好きです! 和の精神に通じますよね」

「そう、それだよ、和の精神だ」

満足そうに、伯父さんはうなずいてくれる。

「日本は災害の多い国だろう? しつこく纏わりつく梅雨前線、迫り来る大型台風。地震だっていつ起こるかわからないし、休火山がいきなり噴火したりもする。何を目的にして団結するかなんて、決められるものじゃない。だからさ、いつでもどこでも、何となく、実はいつも臨戦態勢で、互いに気遣い合っている。家で独りでいても、ご近所迷惑を考えて生活音を抑えたりしてないかい? 意識してもやっているけど、無意識レベルでも我々は『一人は皆のために、皆は一人のために』をやっているんだよ」

それを、お互い様という、と伯父さんはとても納得できる言葉でまとめてくれた。

「我々が()()なのは、そうでないとこの(災害大国)で生きていけないからだ。一人は皆のために、皆は一人のために。意識下に通奏低音のように流れるその精神で、我々は日々をサバイバルしている」

「言われてみれば……」

日常、ああしろ、とか、こうしろ、とか誰も言わない。だけど、公共の場では行儀よくするとか、他人に迷惑かけるヤツがいれば白い目で見るとか。困ってる人がいたら「大丈夫かな?」と心配しつつ、ずっと気にかけていて、自分が力になったり、そうでなくても誰かが助けているのを見てようやく安心するとか。

直接する・しないにかかわらず、コミュ障とかリア充とかその人の性格にも関係なく。そういうのが普通すぎて意識することもないけれど。

「いつも、誰かのことを気遣ってますね。道を歩くときでも無意識に譲り合ってるし。こう言ってしまうとすごくみんないい人っていうか、大袈裟だけど……、悪い人もいる、とかいうのとは別に、基本的にそうですね」

そう、()()()にね、と伯父さんはうなずいてみせる。

「裏を返せば、相互監視社会といえるがねぇ。そのお蔭でというか、欧米のように飛びぬけて身勝手な行いをする人間は少ない。良し悪しで言うなら、この日本の国では概ね良いほうに機能している。たまに極端に傾くが、政治経済世界情勢は常春のように変化しないというわけではないから、それに適応していくのも仕方ない。ただ、いざ災害というとき、一致団結してことに当たれるというのは我々の大きな強みだよ。文句を言いつつも、他人のために頑張れる。明日は我が身、という意識があるから」

「……皆で協力してことに当たるほうが、合理的ですよね」

そのほうが、早く災害から立ち直れるし。

「ああ、そうさ。我々は合理的なんだ。お互い様、明日は我が身、和をもって尊しとなす。無駄に争っているより、そのほうが物事が円滑に進むんだものねぇ。道は譲りあったり、傘は避け合ったりするほうが、お互い早く目的地に着けるんだから」

我々が他人を意識するのは、争うためじゃない、と続ける。

「助け合うためだよ。それが結局自分のためになるから。お互い様の気持ちで、霞か靄のように薄く広く繋がり合っているのさ。目には見えないがねぇ──さっき、何でも屋さんには見えなかった“鬼”どもを覆う、“欲”でできた黒い靄みたいに」

「……」

忘れてたのにぃ! いや、もう危険はないか。疫喰い桜こと、悪食鯉のループタイが喰ってくれたんだし……。

「その、お互い様で繋がる霞から飛び出すと、“鬼”どもに見つかりやすくなるんだよ。見つかったからといって、必ずしも取り憑かれるわけではない。ただ、狙われやすくはなる。群れから離れた子羊のようにねぇ」

そう言って、伯父さんはニッタリと笑った。
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