第331話 芒の神様 10
文字数 2,126文字
茅場から駐車場まで下ってきて、携帯で呼んだタクシーの中でも、ホテルに預けた荷物を取りに戻って、駅までホテルのマイクロバスで送ってもらったときも、その後の電車の中でも、徒歩で移動するとき以外はずっと寝てた。
「体力を消耗するというより、頭が疲れるみたいなんだよね」
「頭が?」
どういうこと?
「道に迷ってしまうのは、ほとんどの場合、同じような風景のせいで方向を見失ってしまうからなんだろうけど、それとは別に、存在しない道をいくつも見せられる、というのがあると思うんだよ。どれが正解なのかわからなくて、頭が混乱して動けなくなる」
今回の僕みたいにね、と続ける。
「言ったでしょう? 数えきれないくらいの道が、目の前に現れたと。瞬きするたび、違う道になる。新しい道が現れる。天に伸び、地に向かい、上りなのか下りなのかと戸惑ううちに、気づくと真っ直ぐ伸びているかに見えたのが、途中からカーブして戻ってきているように感じられたり」
「う……頭がこんがらがりそうです」
「そう、そういうことなんだよね。精神的な緊張と、困惑と、恐怖。どの道を選べばいいのかわからないのに、先に進まなければならないという強迫観念に駆られ、でも動けない。脳が押し潰されるような重圧と混乱と、ああ、つまり──」
情報処理が追いつかない、っていう感じかなぁ、と真久部さんは首を捻る。
「脳がオーバーヒートして気絶するか、処理落ちみたいに眠くなる──そんな感じだと思う」
熱が出たりしなかっただけ、マシなのかも、とちょっと考え込んでいるようだ。
「でもねぇ、幼かったあのときは、不思議な体験をしただけだった。その意味も、何もかもわかっていなかったんです」
「真久部さんと遊んだというその……神様? は、真久部さんを助けてくれたんですよね?」
「ええ、たぶん。──怖 い 大 人 に 連 れ て 来 ら れ 、 追 い か け ら れ た 子 供 を、ま た 一人保護したつもりだったんだと思います」
それは妙な言い回しだったのに、俺は何も思わず、だから普通にうなずいて、誘拐犯から逃げることのできた幼い真久部さんの幸運を思っていた。
実際に見たからわかるけど、あの広大な薄の原、背高の茎や根の密集する中に子供の小さな身体で逃げ込めば、もはや誘拐犯に捕まることはなかった、とは思う。だけどもし、その前に車から逃げられなかったら、どんなことになっていたか──。
外遊びの子供を不審者から守るには、とつい難しい顔になってしまった俺をよそに、真久部さんは先を続けている。
「同じような子を、何 人 も 助けたみたいだったけど、あの子は誰も自分と遊んでくれなかったと言っていた──。後から、何度もその時のこと、あの子の言ったことを思い返していたんだけど……」
子供だった僕には何も思いつかなかった、と寂しげにこぼされた言葉にハッとして、逸れかけていた意識を話に戻す。
「でもね、ものを知るようになってから、わかったんです。──あの子は、異形だった」
「異形……?」
あんまりいい意味では使われない言葉のような……。俺の目に理解の色を見て、真久部さんはうなずいてみせる。
「今でも、時々思い出しますよ。あの子の、透けるような白い肌。白い髪、赤い、目──」
当時、幼稚園で飼ってた白兎を思い出したものですよ、と言うのを聞いて、俺は、あ、と思いついた。
「それって、白子 ?」
確か、生まれつきメラニン色素が少ないっていうか、無いっていうか、そういう体質の人だったっけ。
「神様だから、人と違うところがあって当たり前なのかもしれません……。ですが、現代では、誰もそれを異形だなんて思いませんよね。ただ珍しいだけで。──昔々の大昔、西洋人ですら見たことのない人たちにとっては、自分たちとは色彩が違い過ぎる存在は、それだけで単純に怖かったんだと思います」
子供は無邪気で偏見が無いとはいうけれど、子供だって身の回りで見たことのないもの、知らないものは怖がるでしょう、と真久部さんは言う。
「周囲の大人の価値観の中で生きているからね。大人が怖がるものは、子供だって怖い。だから、あの子に……神様に助けられたとしても、一緒に遊ぼうとはとても思えなかったんでしょう」
「……」
チ…… チ…… チ……
……チ……チ……ッ
ッ……チッ……ッ……
…… …… ッ……
珍しく静かな古時計たちの音。
店のそこここでは、影ともいえない気配たちがひっそりと息づいている。それは店主の集めた古い道具たちの夢だろうか。それとも、夢に惹かれて引かれた夢……? 手をつなぎ、輪になって遊ぶ、垣間見えるその姿は少し不思議だ。声の無い歌。歌の主たちははしゃいでいる、俺の無意識が向けられたのが嬉しいのか──遊ぼうよ。ああ、いいよ……
……ああ、なんか一瞬眠りそうになった。この店にいると、何故か睡魔に負けそうになることがよくある。しゃべってるときになるのは珍しいけど──。
「──何でも屋さんなら、大昔の価値観の中でもあの子と遊んでくれそうですね」
ふと呟いた店主の顔は、微笑ましいものを見るような、慈しむような。それでいて少しだけ悲しいような、なんともいえない色を浮かべていて、その目は店の中を──それを通してどこか遠いところを見ているかのようだった。
「体力を消耗するというより、頭が疲れるみたいなんだよね」
「頭が?」
どういうこと?
「道に迷ってしまうのは、ほとんどの場合、同じような風景のせいで方向を見失ってしまうからなんだろうけど、それとは別に、存在しない道をいくつも見せられる、というのがあると思うんだよ。どれが正解なのかわからなくて、頭が混乱して動けなくなる」
今回の僕みたいにね、と続ける。
「言ったでしょう? 数えきれないくらいの道が、目の前に現れたと。瞬きするたび、違う道になる。新しい道が現れる。天に伸び、地に向かい、上りなのか下りなのかと戸惑ううちに、気づくと真っ直ぐ伸びているかに見えたのが、途中からカーブして戻ってきているように感じられたり」
「う……頭がこんがらがりそうです」
「そう、そういうことなんだよね。精神的な緊張と、困惑と、恐怖。どの道を選べばいいのかわからないのに、先に進まなければならないという強迫観念に駆られ、でも動けない。脳が押し潰されるような重圧と混乱と、ああ、つまり──」
情報処理が追いつかない、っていう感じかなぁ、と真久部さんは首を捻る。
「脳がオーバーヒートして気絶するか、処理落ちみたいに眠くなる──そんな感じだと思う」
熱が出たりしなかっただけ、マシなのかも、とちょっと考え込んでいるようだ。
「でもねぇ、幼かったあのときは、不思議な体験をしただけだった。その意味も、何もかもわかっていなかったんです」
「真久部さんと遊んだというその……神様? は、真久部さんを助けてくれたんですよね?」
「ええ、たぶん。──
それは妙な言い回しだったのに、俺は何も思わず、だから普通にうなずいて、誘拐犯から逃げることのできた幼い真久部さんの幸運を思っていた。
実際に見たからわかるけど、あの広大な薄の原、背高の茎や根の密集する中に子供の小さな身体で逃げ込めば、もはや誘拐犯に捕まることはなかった、とは思う。だけどもし、その前に車から逃げられなかったら、どんなことになっていたか──。
外遊びの子供を不審者から守るには、とつい難しい顔になってしまった俺をよそに、真久部さんは先を続けている。
「同じような子を、
子供だった僕には何も思いつかなかった、と寂しげにこぼされた言葉にハッとして、逸れかけていた意識を話に戻す。
「でもね、ものを知るようになってから、わかったんです。──あの子は、異形だった」
「異形……?」
あんまりいい意味では使われない言葉のような……。俺の目に理解の色を見て、真久部さんはうなずいてみせる。
「今でも、時々思い出しますよ。あの子の、透けるような白い肌。白い髪、赤い、目──」
当時、幼稚園で飼ってた白兎を思い出したものですよ、と言うのを聞いて、俺は、あ、と思いついた。
「それって、
確か、生まれつきメラニン色素が少ないっていうか、無いっていうか、そういう体質の人だったっけ。
「神様だから、人と違うところがあって当たり前なのかもしれません……。ですが、現代では、誰もそれを異形だなんて思いませんよね。ただ珍しいだけで。──昔々の大昔、西洋人ですら見たことのない人たちにとっては、自分たちとは色彩が違い過ぎる存在は、それだけで単純に怖かったんだと思います」
子供は無邪気で偏見が無いとはいうけれど、子供だって身の回りで見たことのないもの、知らないものは怖がるでしょう、と真久部さんは言う。
「周囲の大人の価値観の中で生きているからね。大人が怖がるものは、子供だって怖い。だから、あの子に……神様に助けられたとしても、一緒に遊ぼうとはとても思えなかったんでしょう」
「……」
チ…… チ…… チ……
……チ……チ……ッ
ッ……チッ……ッ……
…… …… ッ……
珍しく静かな古時計たちの音。
店のそこここでは、影ともいえない気配たちがひっそりと息づいている。それは店主の集めた古い道具たちの夢だろうか。それとも、夢に惹かれて引かれた夢……? 手をつなぎ、輪になって遊ぶ、垣間見えるその姿は少し不思議だ。声の無い歌。歌の主たちははしゃいでいる、俺の無意識が向けられたのが嬉しいのか──遊ぼうよ。ああ、いいよ……
……ああ、なんか一瞬眠りそうになった。この店にいると、何故か睡魔に負けそうになることがよくある。しゃべってるときになるのは珍しいけど──。
「──何でも屋さんなら、大昔の価値観の中でもあの子と遊んでくれそうですね」
ふと呟いた店主の顔は、微笑ましいものを見るような、慈しむような。それでいて少しだけ悲しいような、なんともいえない色を浮かべていて、その目は店の中を──それを通してどこか遠いところを見ているかのようだった。