第32話 コンキンさん 4

文字数 3,133文字

一番近い祠は、最後にアンパンを供えたところだ。

音に追い立てられるように、俺は草叢に走り込む。男は掴まれた腕の痛みを訴えるが、今は構っていられない。


 コーーーオオオオオオーオーオーンンンンン
 コキーイーイイイーイイーイイーインンン


音が、追いかけてくる。近づいてくる。
早く、早く。祠へ、祠の裏側へ。

何とも知れない恐怖に急かされるまま、さっき草を刈ったばかりのエリアに辿り着いた。足を止めずに直進し、四つの祠を頂点とする大きな四角形の内側に飛び込む。

「……!」

男もろともそこに転がり込んだ瞬間、目に見えない何かを突き抜けたような気がした。勢いのまま草叢に倒れ込み、荒い息をつく。枯れたような硬い根っこが痛い。もうちょっと刈っておけば良かったな……。隣では、同じように転がっている男が俺よりも苦しそうにヒーヒーゼーゼー息を荒げていた。──若いのに、運動不足じゃないか? 

そんなことを考えて現実逃避をしている間にも、音は近づいてくる。


 コオーーーーーーオオオオオオオオオオオオオォン
 コキィーーーーーーーイイイーイイイイーーーィーン


ついに、祠のすぐ近くまで来た。背中にぶわっと冷や汗がにじむ。


 コオオオオオオオオオーオオオオオオオオオオオーンンンン
 コキィーーーーイイイイイイイイーーーーーイイイーーンン


耳を塞いで蹲る。


 コオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオーーオオーンンン
 コキィィーーーーーーーイイイイイイイイイイイイイイーーーィィン


音が、荒れ狂う。四方八方から囲い込んで押し潰そうとする。だけど、四つの祠を結んだ四角形の内側にいる限り、大丈夫、なはずだ。

全身の肌がそそけ立つような恐怖の中、目も耳も閉じてひたすら耐えてどれくらい経っただろう。音の暴風が弱まった。潮が引くように、だんだん遠くなっていく。──そのことに気づきホッとして、ようやく少し身体の力を抜くことが出来た。

「な、なあ、あれ、何なんだ、よ……」

俺と一緒に声も出せずに縮こまっていた男も、ようやく身体の自由が戻ってきたようだ。震えるような小声で訊ねてくる。だけど、俺はそれを手で制した。


 コーーォン
 コキィーン


遠くなってはいるけど、まだ聞こえる。俺は堪え切れず身震いした。今日ここに来て、こんなに恐ろしい思いをするとは思わなかった。


 コー……ン
 コ……ィーン


 コ……
 キ……ィ


 ォォ……
 ィィ……


 ……ォ
 …ィ


 ォ……
 ……


まだ微かに音が響いてる気がする……、だけどもう、危機は脱したはずだ。──大丈夫だよな……? 

風だけが変わらずざわめいている。草叢をざわめかせている。俺はさらに息を潜め、完全に聞こえなくなるのを待った。

「アンタ、何で……この音。あ、アンタ知ってるのか?」

知ってるのかと聞かれても、こう答えるしかない。

「知らない」

素っ気無く首を振る俺に、男は喚いた。

「んなわけねえだろ! 知ってるから逃げたんじゃないのかよ!? 無理やり俺まで引っ張ってさあ!」

幽霊を見たみたいに顔色が悪いのに、さっきまでの恐怖のせいか目だけがギラギラしてる。形振り構わず走ったり、草叢に転がったりしたせいであちこち泥砂まみれになってるし、髪もぼさぼさで酷い格好だ。ま、俺も似たようなもんだろうけど。

「あの木を打ちつけるような音が何なのかは知らない。ただ──」

俺はそれを言うのを躊躇った。だってさ、頭おかしい人と思われたら嫌じゃないか。たとえ、それが改造車乗り回して騒音公害撒き散らすようなヤツだとしても。

うーん、と悩んでいると、そんな俺を見てどう思ったのか、男はじりっと後ずさった。

「……ってゆーか、アンタこんなとこで何やってたんだよ? おっかしーじゃねーか、こんな草しか生えてないようなとこで。なあ、アンタ……」

ほんとうににんげんか?

喉の奥から無理やり押し出したような、掠れた声。俺を見るその目は化け物でも見るかのように恐ろしげに見開かれて……。

って、何でだよ!

「俺はふつーの人間ですー!」

つい、子供っぽく反論していた。

「そ、そうかよ……」

思わぬ勢いに気圧されたのか、男は少し怯んだようだ。ふんっ! 変なこと言うからだ。

「俺が今日ここにいるのは、仕事。祠の清掃を頼まれたんだ。それとお供えな」

「うそくせー。そんな仕事があるのかよ?」

「あるよ。墓参り代行とか、いろいろ。忙しい世の中だからさ。そういう隙間を埋めるみたいな仕事、してるんだよ」

ほら、と俺は清掃グッズの軍手と手箒を取り出してみせた。

「タワシもあるよ。これで石の表面に付いた埃や苔を擦るんだ。──で、さっきの話の続きだけど」

君が見当違いなこと言うから話が逸れたんだけど、と睨んでおく。

「この場所に来る前、依頼主に注意事項として聞いたんだ」

──祠の清掃とお供えは、朝から始めてもらったら昼には終わるだろうだから、心配はないと思うんだが……もしも、もしもだよ、どこからともなく硬い木を打ちつけるような音が聞こえてきたら、全てを放り出してでも、すぐに四つの祠を結んで出来る四角形の内側に入りなさい。そして、音が完全に聞こえなくなるまでそこから出ちゃいけないよ。

これを言った時の竜田さんの顔……見開いた目が血走ってて、怖かった……。うんと言うまで、絶対許してもらえないと思った。もちろん、拒否する意志も意味もないからそれはもう力強く「はい!」って言ったけどさ。

男に説明しながら、あの、何かに堪えきれずに押し殺したような震え声を思い出す。うう、背中がぶるっとする。

「その音が聞こえてきたとして、もしもそこに入らなかったらどうなるのかと聞いてみたら──、最悪、命を取られるかもしれない。だから絶対に言われた通りにしなさいと念押しされた」

そう言葉を締めると、男はあの時の竜田さんのように、細く掠れたような声を絞り出した。

「な、なんだよ、それ。嘘だろふざけんなよ、そんな……」

「嘘、ねぇ……」

あんな真顔で吐く嘘、ねぇ。無いと思うよ。仮に俺を騙したとして、竜田さんは何の得もしない。

「いい大人が、金銭の発生する仕事を依頼した相手に嘘吐いてどうする?」

「だけどそんなバカらしい話……」

納得出来ないらしく、ぶつくさ言ってる。だから話したくなかったんだよな。俺はそっと溜息をついた。

「信じたくないなら、別に信じなくてもいいよ。俺だって話を聞いた時は半信半疑だったし」

「半分は信じたのかよ?」

嘲るように口を歪めてみせはするけど、強がりだというのはすぐ分かる。だってさ、こいつ腰を抜かしたままだもん。それに触れるとまたややこしくなるだろうから、俺はそのまま続けた。

「そうだよ。だからこそ助かることが出来たんじゃないか」

あのまま道路に突っ立ってたら──いや、車の中に居たって危なかったんじゃないかな。そういう感じがする。証明出来ないけど。

「あの現象? が起こるとしたら、それは昼間の明るいうちではない、と依頼主は言ってた。気をつけないといけないのは、黄昏時──昼と夜の境目だとも。だから、俺は全く気にしてなかったというか、すっかり忘れてた。予定では昼過ぎには全て終わっていて、今頃は帰りのバスに乗ってるはずだったから」

「だったら、何でまだ明るいのにあんな音……」

男が言いかけたのを遮って、俺は真剣な声で告げた。

「それより先に、俺に百円渡してほしい」
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