第353話 鏡の中の萩の枝 4

文字数 2,279文字






ちりんちりん、と慌ただしくドアベルが揺れる。

駅裏ビルの半地下の、慈恩堂の入り口ドアを開けるのに、いつもは必ず少しは緊張するのに、今日の俺はそれどころじゃなかった。

「真久部さん! 真久部さん! 真久部さん!」

だって。人が一人、目の前で消えてしまった。茫然自失の驚愕のあとに、遅れてやってきた恐怖。それに追いかけられるようにして、俺はここに逃げ込んできた。もしかして一番ダメな場所かもしれないけど、今の俺にはこの慈恩堂しか逃げ場がなかった。

雑多な骨董古道具にあふれた通路を縫い、息を切らせて帳場の前にたどり着くと、いつもは地味に整った男前面に読めない笑みを標準装備の店主が、今日は何故だか申しわけなさそうな顔で頭を下げてきた。

「すみませんでしたね、何でも屋さん」

何が、と考える間もなく、隣の畳エリアから暢気を装った面白げな声が掛けられる。

「いやあ、きみならやれると思っていたよ、何でも屋さん」

白い髪、白い髭。白い眉の下に悪戯な瞳を光らせる真久部の伯父さんは、今日もスタイリッシュに仙人めいている。甥っ子の真久部さんよりも、数段胡散臭くて怪しい笑みを浮かべているのはいつもどおりだけど、今日はなんでそんな満足そうな顔……いや、今はそんなことどうでもいい。

「消え、消えちゃって、人が。鳥居さんが消え──真久部さん!」

訴える俺の肩を、帳場から下りてきた真久部さんが労わるように叩き、そっと腕を引いて畳エリアに上がるよう導いてくれた。

「それは吃驚しましたね。わかりますよ。まずはお茶でも飲んで、落ち着いて。ね? 何でも屋さん。──伯父さん、お茶を淹れてあげてください」

そんな言葉をぼんやり聞きながら、気がつくと、俺は慣れ親しんでしまったこの店の畳エリアの、ちゃぶ台の前に座らせられていた。

「ほら、何でも屋さん。温めにしてあるから、まずは一杯お上がりなさい」

真久部の伯父さんが機嫌良く勧めてくれるお茶を、言われるままにひと口ふくむ。

「……」

喉がカラカラだったことに気づき、俺は残りを一気に飲み干した。吐きだした溜息とともに、身体の力が抜けたような気がする。

「さ、次は熱いのを。あのラーメン屋(・・・・・・・)の甘茶ほどじゃないけど、このお茶もなかなかの甘露だと思うよ。お茶にうるさい何でも屋さんのために、産地で仕入れてきた(・・・・・・・・・)からねぇ」

スタイリッシュな仙人は、いちいち何かを含んだような言い方をしてくるけれど、あの甘茶とか産地ってどこだとか、そんなことに反応してる余裕までは、お茶はもたらしてくれなかった。

「……今日は揶揄いがいがないねぇ。やっぱり、ショックだったか」

「当たり前でしょう、伯父さん。何でも屋さんは普通の感覚の持ち主なんですからね」

俺を挟んで、二人が何か話してる。

「もう慣れてると思ったのになぁ」

「あなたや僕とは違うんですから。──僕だって、あなたほど慣れてはいませんよ」

「謙遜しなくてもいいのに。素直じゃないねぇ?」

「謙遜なんてしていないし、素直でなくて結構です。今は何でも屋さんですよ。あなたが事前に説明しなかった理由はわかりますけど、何でも屋さんにとっては災難でしかないんですからね」

「災難か」

そう言って、伯父さんはくすくす笑った。邪気なんて無さそうな、そのくせ邪気しか感じさせない笑み。

「幽霊なら、見たことあるんだろうに、何でも屋さん。この店でもさ。怖い思いはしても、害はなかったでしょう? それならそんなに怖いことじゃないんだよ」

「……!」

怖い言葉が引っかかって、俺は思わず声を上げた。

「ゆ、ゆゆ、幽霊だったんですか、鳥居さん、あの人、あれ、幽霊だったんですか?」

たしかに、俺、幽霊見たことある。この店でも見た──見てしまった。二回目のアレは……思い出したくもない。

「幽霊以外の何だと、きみは思うかね? 何でも屋さん」

ようやく反応した俺に、にったりと、伯父さんは古猫よりもさらに怪しい笑みを浮かべてくる。

「ま、マジシャンとか」

怖い方向から逃れたくて、俺が脳みそを絞って答えると、伯父さんはブフッと吹き出した。

「マジシャンと来たか! 相変わらずボケがすごいというか、なかなかの食わせ者だねぇ。アハ、ハハハ……! ああ、腹が痛い」

まだ笑ってる。そこに甥っ子が冷たく釘を刺す。

「何でも屋さんのソレは、筋金入りですから。あまりいじめると嫌われますよ」

僕だって気をつけてるんですからね、と真久部さんは悪戯っ気たっぷりな伯父を睨み、ぼんやりしている俺には、気遣うように、穏やかな声を掛けてくる。

「さあ、何でも屋さん。伯父の預けた鏡を出してください。物騒なものは、もうこの人に返してしまいましょうね」

「あ、鏡……?」

そうだ、鏡。萩の手鏡。

「ええ。もう怖くないですから。さあ、あの鏡を」

どうしたっけ、あれ。俺が鏡を持って、それを鳥居さんがのぞきこんで。植木鉢から爆発してるような、あの萩の枝が映っていると。鏡の中にも萩が見える、そこにお母さんがいると言って、子供のようにお母さんを呼んで、呼んで、そして消えて──。

「……」

大事な預かりものだから、無意識にポーチに仕舞ったらしい。斜め掛けしたままのそれを肩から下ろして、俺は中からあの袱紗包みを取り出した。

「どれ」

真久部さんが受け取る前に、伯父さんが手を出してするりと奪っていく。

「伯父さん……!」

甥っ子の抗議の声もなんのその、無造作に袱紗をめくり、鏡をのぞき込んでいる。

「……ああ、うん。無事に捕まえることができたみたいだねぇ。いいことしたよ、何でも屋さん」

にいっ、とご機嫌な猫又のような笑みを向けてくれるけど、何が? 俺が何をしたと?
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