第235話 金魚の夢
文字数 2,385文字
「ええっと──」
どうどう、と自分を宥めながら、去年の夏のちょっと怖かった出来事を頭の隅に追いやる。
「真久部さんが言うならそうなんでしょうけど……そんな危険物が何で蔵に……?」
お寺とかに持っていかなかったの?
「それには理由があって……まあ、今となっては推測するしかないんだけどね」
残念そうに、真久部さんは小さく息を吐いた。
「結論から言うと、水無瀬さんの叔父さんは多分──“視える人”だった」
「……」
いわゆる、“霊能者”ってやつ?
「幼い水無瀬さんとよく遊んでくれたのは、初めての甥っ子が可愛くて、かまいたかったというのもあったんだろうけれど、もうひとつ。悪いモノから護るため、できるだけ傍にいるようにしていたんじゃないかなぁ……」
幼い子には“調節”の過程で変に見えるものと、害意のある悪いモノとの区別がつかず、時にひどく危なっかしいですから、と続ける。
「たとえば、そう……部屋の隅にいたオバケは、暗がりがそう見えただけで、本当に害はなかったと言えるでしょうか?」
いきなりそんなことを言うから、背中がぞくっとした。
「──それは……光の届きにくい暗がりを、そのように脳内変換? してしまってただけなんじゃ……アリス症候群のせいじゃないんですか?」
「天井から睨んでいた目はどうだろうね? 幼い水無瀬さんにはそう見えたというだけで、ただの思い込みの産物だったと──」
本当にそう思う? と、真久部さんは小首を傾げてみせる。──そのわざとらしい、可愛くもなんともない仕草が、何だか地味に怖くて……。
「……」
目を逸らせた拍子に、俺は思わずこの慈恩堂の、そこかしこで骨董古道具たちが床に落す影や、隅っこに蟠る暗がりを妙に意識してしまった。
ゆるく渦巻く薄い影が、煙のように揺らぎながら隣の影に移っていく。そうして濃くなった暗がりの中で、何か が密かに息づきながら、じっと夜を待っているように思えてくる。それが時折蠢いては、天井からの明かりに触れそうになり、まるで臆病な動物が葉陰に引っ込むように、びくっと後ずさるように見え……。
……
……
いやいや、俺はもうとっくに大人で、立派なオッサン! アリス症候群は遥か昔に卒業してるはずだし、そんなの気のせい気の迷いに決まってる……。
「誤変換や勘違い、気のせいや気の迷いで済む場合もあるけど、実際、いるからねぇ……。明確な悪意や害意を向けてくるものが──」
ちらりと店内に目をやって、真久部さん。
ドキッ! まさか、この人にサトリのスキルはないよな? いくら怪しく見えようとも、さすがにそれは──。
思わずそろっと顔を上げてみると、いつものように胡散臭い笑みを向けられたので、つい菓子盆に手を伸ばして普段の好物を摘み上げ、薄い包装を剥くのに気を取られるふりをしてしまった。
「そ、そういうのは困るっていうか……怖いですよね!」
こんがりキツネ色のバターサンドをかぱっと口に入れて、もくもくと……うう、美味いんだけども、満腹の今はやっぱりこのレーズンとホワイトチョコレート入りバタークリームが、重い──。
「水無瀬さんの叔父さんには、見分けがついたんでしょうか? つまり、その……無害なのとそうでないのの」
指先で銀色の包紙を畳んで折りつつ、うっかりそんなことをたずねてしまう。うう、俺の馬鹿。──細長いから鶴はやめて、もう結んじゃえ!
「ついたはずだよ。でなければ、危機を察知できないですからね」
本当は聞きたくないという、俺の心の声が聞こえてそうなのに、律儀に答えながら真久部さんは空になってた茶碗に新しいお茶を注いでくれる。
「“視え方”も人それぞれで、視えるだけ、感じるだけの場合もあるけれど、水無瀬さんの叔父さんは少なくとも追い払うことはできたようです」
「……でも、どうして今になってそんなことが?」
さっき、「多分」とか言ってたし。だからこれは新事実なんだと思う。
「水無瀬さんから聞いたんだよ──もっとも、ご本人は夢だと思っていたようだけど」
「夢?」
「そう、夢。でも、たぶん半分は現実」
頬にちらっと笑みをひらめかせて、幼児の記憶あるあるですよ、と真久部さんは断言する。
「水無瀬さん、金魚が好きだとおっしゃっていたでしょう?」
「ああ……赤くてちょろちょろしてて、可愛いって」
水無瀬家の庭の、端に薄く氷の張った池の底、じっと動かない金魚たちを思い出す。今は眠ってるけど、暖かくなってきたら目覚めて、ちょろちょろと元気に泳ぎ出すんだろう。一匹だけでっかいやつは悠々と。
「あれはね、幼い水無瀬さんの夢の中に、金魚がよく登場したからなんですよ」
「……」
「病弱だった頃、悪夢に魘されていると、いつもどこからともなく小さな金魚が現れて、悪いものを追い払ってくれたんだそうです。小さな小さな金魚が、何かわからないけど大きな怖いものを簡単に蹴散らすのを、泣くのも忘れてぼーっと見ていた記憶があるそうですよ」
小さな尾鰭で、ピシッパシッっと弾き飛ばしてたのかな。合気道の達人、もとい、達魚だったのかも。なーんて。
「一人で遊んでいて、急に意味のわからない恐怖を感じたときは、だいたいすぐに叔父さんが来てくれて、抱っこして背中をぽんぽん叩いて落ち着かせてくれたらしいんだけど──そういうときにも、小さな赤い金魚が一緒にいて、慰めるように水無瀬さんの涙を払ってくれたそうです。なかなか泣き止まないときなど、涙を水玉にして、鰭でお手玉してみせてくれたこともあったとか」
「金魚が鰭でお手玉は、いくらなんでも夢でしょう」
うっかり馬鹿なこと考えちゃった俺だけど、さすがにそれはないだろうと思い、あはは、と笑っていると、どうでしょうね? と真久部さんは真面目な顔になる。
「確かに、現実には有り得そうもなさそうな絵面 だけど、だからってそれが夢とはかぎりませんよ。何でも屋さんだってよく知っているでしょう?」
どうどう、と自分を宥めながら、去年の夏のちょっと怖かった出来事を頭の隅に追いやる。
「真久部さんが言うならそうなんでしょうけど……そんな危険物が何で蔵に……?」
お寺とかに持っていかなかったの?
「それには理由があって……まあ、今となっては推測するしかないんだけどね」
残念そうに、真久部さんは小さく息を吐いた。
「結論から言うと、水無瀬さんの叔父さんは多分──“視える人”だった」
「……」
いわゆる、“霊能者”ってやつ?
「幼い水無瀬さんとよく遊んでくれたのは、初めての甥っ子が可愛くて、かまいたかったというのもあったんだろうけれど、もうひとつ。悪いモノから護るため、できるだけ傍にいるようにしていたんじゃないかなぁ……」
幼い子には“調節”の過程で変に見えるものと、害意のある悪いモノとの区別がつかず、時にひどく危なっかしいですから、と続ける。
「たとえば、そう……部屋の隅にいたオバケは、暗がりがそう見えただけで、本当に害はなかったと言えるでしょうか?」
いきなりそんなことを言うから、背中がぞくっとした。
「──それは……光の届きにくい暗がりを、そのように脳内変換? してしまってただけなんじゃ……アリス症候群のせいじゃないんですか?」
「天井から睨んでいた目はどうだろうね? 幼い水無瀬さんにはそう見えたというだけで、ただの思い込みの産物だったと──」
本当にそう思う? と、真久部さんは小首を傾げてみせる。──そのわざとらしい、可愛くもなんともない仕草が、何だか地味に怖くて……。
「……」
目を逸らせた拍子に、俺は思わずこの慈恩堂の、そこかしこで骨董古道具たちが床に落す影や、隅っこに蟠る暗がりを妙に意識してしまった。
ゆるく渦巻く薄い影が、煙のように揺らぎながら隣の影に移っていく。そうして濃くなった暗がりの中で、
……
……
いやいや、俺はもうとっくに大人で、立派なオッサン! アリス症候群は遥か昔に卒業してるはずだし、そんなの気のせい気の迷いに決まってる……。
「誤変換や勘違い、気のせいや気の迷いで済む場合もあるけど、実際、いるからねぇ……。明確な悪意や害意を向けてくるものが──」
ちらりと店内に目をやって、真久部さん。
ドキッ! まさか、この人にサトリのスキルはないよな? いくら怪しく見えようとも、さすがにそれは──。
思わずそろっと顔を上げてみると、いつものように胡散臭い笑みを向けられたので、つい菓子盆に手を伸ばして普段の好物を摘み上げ、薄い包装を剥くのに気を取られるふりをしてしまった。
「そ、そういうのは困るっていうか……怖いですよね!」
こんがりキツネ色のバターサンドをかぱっと口に入れて、もくもくと……うう、美味いんだけども、満腹の今はやっぱりこのレーズンとホワイトチョコレート入りバタークリームが、重い──。
「水無瀬さんの叔父さんには、見分けがついたんでしょうか? つまり、その……無害なのとそうでないのの」
指先で銀色の包紙を畳んで折りつつ、うっかりそんなことをたずねてしまう。うう、俺の馬鹿。──細長いから鶴はやめて、もう結んじゃえ!
「ついたはずだよ。でなければ、危機を察知できないですからね」
本当は聞きたくないという、俺の心の声が聞こえてそうなのに、律儀に答えながら真久部さんは空になってた茶碗に新しいお茶を注いでくれる。
「“視え方”も人それぞれで、視えるだけ、感じるだけの場合もあるけれど、水無瀬さんの叔父さんは少なくとも追い払うことはできたようです」
「……でも、どうして今になってそんなことが?」
さっき、「多分」とか言ってたし。だからこれは新事実なんだと思う。
「水無瀬さんから聞いたんだよ──もっとも、ご本人は夢だと思っていたようだけど」
「夢?」
「そう、夢。でも、たぶん半分は現実」
頬にちらっと笑みをひらめかせて、幼児の記憶あるあるですよ、と真久部さんは断言する。
「水無瀬さん、金魚が好きだとおっしゃっていたでしょう?」
「ああ……赤くてちょろちょろしてて、可愛いって」
水無瀬家の庭の、端に薄く氷の張った池の底、じっと動かない金魚たちを思い出す。今は眠ってるけど、暖かくなってきたら目覚めて、ちょろちょろと元気に泳ぎ出すんだろう。一匹だけでっかいやつは悠々と。
「あれはね、幼い水無瀬さんの夢の中に、金魚がよく登場したからなんですよ」
「……」
「病弱だった頃、悪夢に魘されていると、いつもどこからともなく小さな金魚が現れて、悪いものを追い払ってくれたんだそうです。小さな小さな金魚が、何かわからないけど大きな怖いものを簡単に蹴散らすのを、泣くのも忘れてぼーっと見ていた記憶があるそうですよ」
小さな尾鰭で、ピシッパシッっと弾き飛ばしてたのかな。合気道の達人、もとい、達魚だったのかも。なーんて。
「一人で遊んでいて、急に意味のわからない恐怖を感じたときは、だいたいすぐに叔父さんが来てくれて、抱っこして背中をぽんぽん叩いて落ち着かせてくれたらしいんだけど──そういうときにも、小さな赤い金魚が一緒にいて、慰めるように水無瀬さんの涙を払ってくれたそうです。なかなか泣き止まないときなど、涙を水玉にして、鰭でお手玉してみせてくれたこともあったとか」
「金魚が鰭でお手玉は、いくらなんでも夢でしょう」
うっかり馬鹿なこと考えちゃった俺だけど、さすがにそれはないだろうと思い、あはは、と笑っていると、どうでしょうね? と真久部さんは真面目な顔になる。
「確かに、現実には有り得そうもなさそうな