第2話 慈恩堂でお留守番。前編
文字数 3,192文字
気づいたら、キスしてた。
机に。
ここは、骨董屋・慈恩堂の帳場。今風に言えば、事務所兼レジとでも言えばいいのかな。
昼間の店番を頼まれたのはいいけど、あんまり静かで暖かすぎて居眠りしてしまった。誰も来ないし。
磨きこまれたこの文机、黒檀? 紫檀? 俺には分からないけど、いい品物なんだろう。普通なら畳の上に置いて使うはずだけど、これは掘り炬燵ふうにしつらえた段の上に設置されているんで、座るのが楽だ。今は冬場だから、実際に掘り炬燵なんだけど。
足元は暖かいわ、ふかふかの座椅子は座り心地満点だわ、暖房は効いてるわ、これはもう、居眠りしろと言われてるとしか思えない。
耐え切れずに大口開けて欠伸をすると、店内にいくつかある柱時計がボーン、と鳴った。
俺はそのまままた眠り込んでしまったらしい。
妙にふわふわして現実感の感じられない世界で、誰かに話しかけられる夢を見ていた。何を言っているのか分からなかったが、その誰かは、終始機嫌よくくすくす笑っていた。
──……は、どこへ……のかしら……?
──逃げちゃ……んじゃ……
──……バカ……たい。どうせ……げられ……
誰がしゃべってるんだろう?
睡魔に身を委ねながら、それでもぼんやりと俺は考えていた。
──……てんぽりす……うと
──おむに……ぽてんて
くすくす、くすくす。
何だろう、あの声。誰がしゃべってるんだ?
……多分、どっかからテレビの音でも聞こえてきてるんだろう。いや、ラジオかな?
そんなことを思った時、また柱時計がボーンと鳴った。
ふ、と意識がはっきりする。深く潜っていた水の底から、ぽっかりと浮かび上がってきたみたいに。
「あ、起きた?」
気配に気づいてか、こちらに向き直り、微笑んでみせる店主。
俺は、ぼーっとその穏やかな顔を眺めていた。
俺に留守を任せ、出かけていた慈恩堂店主が、いつの間にか戻ってきていたらしい。淹れたばかりの紅茶を、俺の前に置いてくれる。そうか、この香りで目が覚めたんだ。
まだ頭がぼーっとする。半分眠りながら礼を言い、熱いカップの表面をふーふー吹いてから、少しずつ中身を啜る。
「シナモンミルクティー、どうかな? 今日も寒いから、こういうのがいいかと思ってね」
「あ……?」
そっか。このお菓子みたいな感じ。シナモンだったのか。
「……ちょっと甘いけど、今日はこれくらいが美味しいかなぁ」
カップで両手を温めつつ、ちまちまふーふーやってる俺に、店主は微笑んだみたいだった。
「そう? それは良かった。お茶請けもあるよ」
おお、これはうっかり食べ過ぎるとキケンなお菓子。以前いた会社で、お土産にもらったこれにハマり、それまでは痩せてたのに、みるみる太ってしまった同僚がいたっけ。
「いただきます……」
一個や二個でメタボにはならないよ。うん。
男二人で何とも優雅なティータイム。静かだ。時折聞こえる古時計の秒針の音のほかは、何も聞こえない。
何も……?
あれ?
「さっき……」
ふと呟いていた。
「さっきの、あれ……」
──何だったんだろう。
自分で何をしゃべっているのかも分からずに、俺はひとり考え込んでいたようだ。
「さっきのって?」
訊ね返されてびっくりした。
「え? いや、あの。えっと」
うーん、どう説明していいのか分からない。
「そう、その。変な夢見てたみたいで。……すみません、店番なのに居眠りこいてちゃダメですよね」
あははは。笑う声が我ながら白々しい。どこぞの<笑い仮面>の爪の垢をもらいたいかも。
なんてバカなことを考えてた俺は、店主の次の言葉で一瞬固まった。
「誰かの話し声でも聞こえた?」
「え……」
ダレカノハナシゴエデモキコエタ?
──その言葉の意味を理解した瞬間、眠りの中で聞こえたあのくすくす笑いが耳の底に甦った。
「や、やだな~、真久部さんたら。俺を怖がらせようったってそうはいきませんよ。ははは……」
無意識に両の二の腕をさすりながら、空笑いする俺。
うう、なんか背中がぞくぞくする。風邪かな? いやいや、のんきに風邪なんて引いてる場合じゃないし。今日はこの後だって小学生のそろばん塾の送り迎えの依頼が待ってるんだし。
「いや、怖がらせるとかそんなんじゃないんだけどね」
ティーカップで両手の先を暖めるようにしながら、溜息混じりに店主は言う。
「店番、これまでも何人かに頼んでやってもらったことがあるんだけど、途中で逃げ出さなかったのって、きみだけなんだ」
これは快挙だよ。
店主は褒めてくれているらしいが、俺はちっともうれしくなかった。
黙ってしまった俺に構わず店主は続ける。
「なんかね、みんな同じようなこと言うんだ。話し声が聞こえるとか、髪を引っ張られたとか、足を触られたとか」
そ、そんな怖いとこだったんか、ここ? 確かにちょっとは不気味かな、とか思わなくもなかったけど、骨董屋の独特な雰囲気のせいだろうって思ってたし……。
ああ、背中がもっと寒くなってきた。
「誰かに見られてるような気がするとか、隅の暗がりに絶対何かいたとか、本当にもう、みんなどれだけ妄想を膨らませるんだか。呆れるを通り越して感心するよ」
拗ねたように唇を尖らせる店主。──どうやら、密かに傷ついていたらしい。
「そ、そんなの、気のせいに決まってるっすよ。ははは……」
我ながら、白々しい笑いだ。
でも、笑う。頑張って笑う。必死になって笑う。
そうでもしなくちゃ、怖いじゃないか!
「気のせい、ねぇ……」
店主が呟いた瞬間、時計の音がボーンと鳴る。俺は一瞬飛び上がり──そうになったが、耐えた。偶然だ、偶然。
「そう。気のせい」
口元を引きつらせながらも笑顔をキープする俺に、店主は複雑な視線を向けてきた。
「妄想は妄想で、それはもちろん見当違いなんだけど、気のせいっていうのは、またちょっと違うかな」
な、何を言うんだこの人は。
「気のせい」が「ちょっと違う」ってことは、気のせいじゃないって言ってるのと同じじゃないのか?
うう。怖い。
頭の中で、恐慌に陥った牧神が今まさに川に飛び込もうとしている、のを、何とか押しとどめる俺。パニック、という言葉はここから来てるんだよなぁ。などと関係のないことに思いを馳せ、気を紛らす。
そんな俺の努力も知らぬげに、店主は悩ましげに溜息をついていた。
「どうしてみんな、ありのままを受け止めることが出来ないんだろう。勝手に怖がってみたり、気のせいだって言ってみたり……」
「あの、真久部さん」
俺は恐る恐る訊ねていた。
「それって結局、どういう……」
「だから、ありのままだよ」
子供に言い聞かせるように、店主は辛抱強く語る。
「ここにあるのは、何? 答えてみてくれるかな?」
何って……。
俺は店内を見回した。
古い柱時計、古箪笥、古鏡、飴色をした和裁用の裁縫箱、少し欠けた陶器の人形、奇怪な鬼神像、火事場から拾ってきたような煤で真っ黒になった仏像。細工は見事だけど、飾り柄の金糸銀糸も色褪せた懐剣……古色蒼然、といえばいいのか、とにかく枕詞に「古い」とつけるしかないようなものばっかりだ。
そりゃそうだよな、ここは骨董屋なんだから。
「……骨董品です」
俺の返事に、店主は頷いた。
「そう。新しいものをそう呼ばないよね。ここにあるのは、年代を重ねた古いものばかりだ。そして、古いものには──」
店主は何か言いかけたようだったのに、困ったように言葉を飲み込んだ。
「顔が真っ青だね」
「え……?」
「今にも倒れそうに見えるよ。脂汗までかいて……そんなに、怖い?」