第259話 入れ替わりの代償は寿命
文字数 2,067文字
「つまり……軍には『検査時に名前の数字を書き間違えたんだろう』と思わせて、周囲の人には『あそこの次男はひ弱だったはずだけど、丈夫になったんだな、だから赤紙来たんだな』と思わせたんですね……」
叔父さんはほぼ家の敷地から外に出ることがなかったという。だから、家族以外の人がその姿を見る機会はほとんどなかったはずだ。二十歳の徴兵検査を受けたときには兵役免除になるほどの病弱さだったけど、「実はここ数年で身体がしっかりしてきて、元気になってたんですよ」って言われたら、そうなのかと思うよな──。
本音では誰もが行きたくない戦地に向かって、立派に出征していくというんだから。
「ええ……」
そういうことです、と真久部さんは静かにうなずいた。
「今は一時的に元気でも、兄が出征してしまったら、後に残るのはやっぱりひ弱な自分。敗戦後の過酷な時代、家族を食わせ、家を支えていくのは壮健な者でも生半可ではないだろうし、治安も悪くなると想像できる」
「……」
その頃のこと、戦後の混乱期のことを、お年寄りたちから聞いたことがある。戦争に取られて家や地域を守る男子が少なくなっていたのをいいことに、不心得者たちが土地の不法占拠や、強盗、放火、強姦などやりたい放題したこと。警察署が暴徒に襲われるなんて、現代日本では考えられないような事件がいくつも起こったとも聞いた。あらゆる物資の欠乏、闇米、闇市──。
「食料の面では、土地持ちの農家はまだましだったでしょう。でも、せっかく田圃や畑を持っていても、叔父さんには、農作業のひとつもまともにできないで、少し働いてはすぐに寝込むだけの自分の姿が見えてしまう。父はまだ元気でいるとはいえ、そうなるとまだ若い嫂 に大きな負担がかかる──」
水無瀬さんのお母さんは、病弱ですぐ熱を出す子の看病に追われ、心労もあり産後の肥立ちが思わしくなかったと、お祖父様の日記にも心配が書かれていました、と真久部さんは教えてくれる。
「戦後の水無瀬家に、国に。兄と自分、どちらが必要かと考えて──すぐに答が出たでしょう。負ける戦に行くのは、戦後を支える力のない自分で充分だと。──幸い、しばらくは 元気でいられるのだから」
「……」
しばらくは、か……。家神様の力は、どれくらいのあいだ保ったんだろうな……。
「それに、叔父さんはどうせ自分の命が長くないことを知っていた」
「え?」
虚を衝かれた気がして、目の前の端正な顔を見やると、感情の読めない、曖昧な表情に迎えられた。
「さっき、何でも屋さんはたずねましたね、叔父さんの払った犠牲は何だったのかって。それがこれなんだよ。禁忌を犯した叔父さんの払った犠牲は、寿命。そして、もしかしたら自分の子を持てたかもしれない可能性を失うこと、それが報い」
「……」
言葉を失う俺に、叔父さんはたぶん、本来は長生きできるはずだったんじゃないかと思うんですよ、と続ける。
「ほら、子供の頃病弱だったという人って、却って長生きだったりするでしょう? 叔父さんはそのタイプだったんじゃないかと思うんですよ、細く長くを地で行くような」
「……船山の鶴松爺さん、二十歳まで生きられるかどうかって子供の頃言われてたけど、その二十歳を迎えたあたりから急に丈夫になって、戦争にも行ったって聞きました」
なんとか生きて帰ってきたのに、先に手違いで戦死広報が届いていたせいで、父母弟妹、妻にまで幽霊扱いされたって苦笑いしてた。
「──ああ、船山さんですか。あの方は百は余裕でいけそうですね」
そう言って、真久部さんはちらっと微笑む。
「戦死広報も、最初の頃は正確に届いていたようだけど、戦況が悪くなってきてからは情報も錯綜してね。生きているはずが死んでいたり、死んでいるはずが生きていることになっていたり。──現代のように通信手段が発達してるわけじゃなかったから、戦地に送り出された父や息子、兄弟従兄弟の消息を求めて遺族や親類縁者が役所に通ったといいますよ……」
復員船の入る港には、帰らぬ我が子を待って、待って、待ち続けた母親たちの姿が何年も見られたといいます、と少し目を伏せてつけ加える。
「戦争には負ける。だけど、その後もこの国は続く。苦しくとも、人は生きていく──。家神様からそれを伝えられた叔父さんは、残り少ない自分の命を、どうすれば一番有効に使えるか、考えた結果が入れ替わりだったんでしょう」
淡々と語られる言葉に、俺は胸が詰まった。
「お、叔父さんの判断について、俺ごときがどうこう言う資格なんか無いけど、」
「ええ」
「無いんだけど……」
それ以上何と言っていいのかわからなくて、俺はうなだれてしまった。
しばらく、沈黙が続く。真久部さんは何も言わず、俺の無言につき合ってくれていた。店の時計たちが静かに、普通に時を刻んでいるのが、俺には何だか励ましのように聞こえていた。国は続く、人は生きていく──。
「叔父さんが、自分は紘一になる、と宣言した意味。それについても言いましょうね。推測ですが、たぶん、“水無瀬紘一”という存在は、あの戦争で必ず 死ぬはずだったんです」
叔父さんはほぼ家の敷地から外に出ることがなかったという。だから、家族以外の人がその姿を見る機会はほとんどなかったはずだ。二十歳の徴兵検査を受けたときには兵役免除になるほどの病弱さだったけど、「実はここ数年で身体がしっかりしてきて、元気になってたんですよ」って言われたら、そうなのかと思うよな──。
本音では誰もが行きたくない戦地に向かって、立派に出征していくというんだから。
「ええ……」
そういうことです、と真久部さんは静かにうなずいた。
「今は一時的に元気でも、兄が出征してしまったら、後に残るのはやっぱりひ弱な自分。敗戦後の過酷な時代、家族を食わせ、家を支えていくのは壮健な者でも生半可ではないだろうし、治安も悪くなると想像できる」
「……」
その頃のこと、戦後の混乱期のことを、お年寄りたちから聞いたことがある。戦争に取られて家や地域を守る男子が少なくなっていたのをいいことに、不心得者たちが土地の不法占拠や、強盗、放火、強姦などやりたい放題したこと。警察署が暴徒に襲われるなんて、現代日本では考えられないような事件がいくつも起こったとも聞いた。あらゆる物資の欠乏、闇米、闇市──。
「食料の面では、土地持ちの農家はまだましだったでしょう。でも、せっかく田圃や畑を持っていても、叔父さんには、農作業のひとつもまともにできないで、少し働いてはすぐに寝込むだけの自分の姿が見えてしまう。父はまだ元気でいるとはいえ、そうなるとまだ若い
水無瀬さんのお母さんは、病弱ですぐ熱を出す子の看病に追われ、心労もあり産後の肥立ちが思わしくなかったと、お祖父様の日記にも心配が書かれていました、と真久部さんは教えてくれる。
「戦後の水無瀬家に、国に。兄と自分、どちらが必要かと考えて──すぐに答が出たでしょう。負ける戦に行くのは、戦後を支える力のない自分で充分だと。──幸い、
「……」
しばらくは、か……。家神様の力は、どれくらいのあいだ保ったんだろうな……。
「それに、叔父さんはどうせ自分の命が長くないことを知っていた」
「え?」
虚を衝かれた気がして、目の前の端正な顔を見やると、感情の読めない、曖昧な表情に迎えられた。
「さっき、何でも屋さんはたずねましたね、叔父さんの払った犠牲は何だったのかって。それがこれなんだよ。禁忌を犯した叔父さんの払った犠牲は、寿命。そして、もしかしたら自分の子を持てたかもしれない可能性を失うこと、それが報い」
「……」
言葉を失う俺に、叔父さんはたぶん、本来は長生きできるはずだったんじゃないかと思うんですよ、と続ける。
「ほら、子供の頃病弱だったという人って、却って長生きだったりするでしょう? 叔父さんはそのタイプだったんじゃないかと思うんですよ、細く長くを地で行くような」
「……船山の鶴松爺さん、二十歳まで生きられるかどうかって子供の頃言われてたけど、その二十歳を迎えたあたりから急に丈夫になって、戦争にも行ったって聞きました」
なんとか生きて帰ってきたのに、先に手違いで戦死広報が届いていたせいで、父母弟妹、妻にまで幽霊扱いされたって苦笑いしてた。
「──ああ、船山さんですか。あの方は百は余裕でいけそうですね」
そう言って、真久部さんはちらっと微笑む。
「戦死広報も、最初の頃は正確に届いていたようだけど、戦況が悪くなってきてからは情報も錯綜してね。生きているはずが死んでいたり、死んでいるはずが生きていることになっていたり。──現代のように通信手段が発達してるわけじゃなかったから、戦地に送り出された父や息子、兄弟従兄弟の消息を求めて遺族や親類縁者が役所に通ったといいますよ……」
復員船の入る港には、帰らぬ我が子を待って、待って、待ち続けた母親たちの姿が何年も見られたといいます、と少し目を伏せてつけ加える。
「戦争には負ける。だけど、その後もこの国は続く。苦しくとも、人は生きていく──。家神様からそれを伝えられた叔父さんは、残り少ない自分の命を、どうすれば一番有効に使えるか、考えた結果が入れ替わりだったんでしょう」
淡々と語られる言葉に、俺は胸が詰まった。
「お、叔父さんの判断について、俺ごときがどうこう言う資格なんか無いけど、」
「ええ」
「無いんだけど……」
それ以上何と言っていいのかわからなくて、俺はうなだれてしまった。
しばらく、沈黙が続く。真久部さんは何も言わず、俺の無言につき合ってくれていた。店の時計たちが静かに、普通に時を刻んでいるのが、俺には何だか励ましのように聞こえていた。国は続く、人は生きていく──。
「叔父さんが、自分は紘一になる、と宣言した意味。それについても言いましょうね。推測ですが、たぶん、“水無瀬紘一”という存在は、あの戦争で