第275話 水の無い瀬 瀬の無い水 終

文字数 3,054文字

「竜神様ぁ、申しわけございません」

男は平たい石を見つけると、今度はそこにきれいな盃を置いた。腰に付けていた徳利から酒を注ぎ、水の落ちない滝に向かって平伏する。

「この盃は昔、位の高い坊さんが一夜の宿の礼にと置いていったものだと聞いちょります。大石を転がしたのはわしらの村のもんじゃありやせんが、同じ川の恵にお縋りするものとして、お詫びにこうして酒もお供えいたします。ですから、どうか御怒りをお収めくだせぇまし」

どうか、どうか、と男が祈っているのを、赤い魚は桶の中で聞いていた。意味はわからなくても、男が真っ直ぐな気持ちで竜神様に何かをお願いしているのはわかったので、一緒になって願った。

──わしからもお願いいたしやす。どうかこの人間の願いを聞いてやってくだせぇ。死にかけのわしを助けてくれるような心のやさしい人間じゃぁ。悪いことを願うはずもねぇ。どうか叶えてやってくだせぇ

一人と一匹は、日が傾くころまで一心になって祈っていた。
そして、木立のあいだから赤い夕陽がすっと斜めに差し込んだとき──。

さあっと小雨が降ってきた。首筋に、桶の水面に、雨の粒を感じて、びっくりした男と赤い魚は上を見る。すると、そこには小さな七色の虹がかかっていた。

「ひゃあ! 竜神様のお恵みじゃあ!」

男の喜んだ声と。

『これ、魚よ』

人のものとは思えぬ、威厳のある声が赤い魚の頭に響いてきて、驚いた赤い魚は目をきょろきょろさせた。

『魚よ、これ。お主じゃ。色違いに生まれて、仲間に疎まれていた魚よ』

──はあ? この声は、もしかして竜神様でいらっしゃいますかぁ?

『そうだ。死にそうになっても誰も恨まず、よく頑張ったな』

──あ、ありがとうごぜぇます……!

やっぱり竜神様は自分のことを見ていてくださったのかと、赤い魚は涙をこぼした。

『この人間も、他人(ひと)のためにこんな山の奥まで来るような善い人間だ』

──そうなんでごぜぇますか?

『ああ。この人間の住む家の裏にある井戸は、(ひでり)でも枯れることはない。だというのに、わざわざこの滝まで吾に願いに来るとは、他人(ひと)のためにしていることよ』

──ああ……

自分を助けてくれた男は、やっぱりやさしい人間だったのだと、赤い魚は喜んだ。

『この人間に免じて、吾は雨を降らせてやろうと思う。──お主はな、こやつに桶に入れてもらわねば死んでいたところだった』

──やっぱり……! ありがたいこってす

『そうか。恩義を感じるか?』

──へえ。それも、めぐりあわせてくだすった竜神様のお蔭でごぜぇます

『ほお。吾にも感謝するか』

──へえ。もちろんにごぜぇます。竜神様に感謝御礼申し上げます

『そうか。お主とこの人間は、相性が良かろう──。これからは助け合って生きるがよい。お主を吾が眷属としてやろう』

──わしが、竜神様の眷属に……?

赤い魚は驚いた。まさか自分のようなものが竜神様の眷属になれるとは、考えたこともなかったのだ。

『そうだ。吾はお主の素直な心根が気に入った。これからよく務めるがよい。この人間は善良すぎるゆえ、助けた他人に足をすくわれることがある。そんなときには助けてやるがよい』

──わかりました、竜神様ぁ。わし、がんばります

『水の無い瀬で、お主は救われた。感謝するがよい。瀬の無い水にあっても、お主は吾が眷属。よく精進せよ。吾は見ておるぞ』

──竜神様に恥ずかしくないよう、努めまする

ははーっと赤い魚が畏まったとき七色の虹は金の光となって消え、男が言うのが聞こえた。

「竜神様、ありがとうごぜぇます。庭に池をつくって、この赤い魚を竜神様の子と思って大切にいたします」

今度は男の言葉の意味がわかった。畏れ多いことを言う、と慌てながらも、男に抱えられた桶の中、赤い魚は竜神様に向けて神妙に頭を下げた。男も滝に向かって深く礼をしている。

そして、来たときより歩きやすいと不思議がる男といっしょに、小雨降る山道を男の家に向かって下っていった──。









「だから、<水無瀬>なんですか……」

乾漆仏のあと、さらにいくつか撮影を終えていた。真久部さんが次の被写体を設置してくれるのを待っているあいだ、俺はうーん、と固まっていた背中を伸ばす。

「そのようですねぇ。この頃は“金魚”という名はなかったんですが、水無瀬さんのご先祖が最後に見た金の光に(あやか)って、めでたい魚だからと“金魚”と呼ぶようになったようです。時代が下るにつれ、他の赤い魚も“金魚”と呼んで大事にするようになり──今は家神様の認識も“金魚”のようですね。とはいえ、魚全般でもあるようだけれど」

鱗を持つ竜神様の眷属ですからねぇ、とそんなふうに言うけど、俺はだんだんわからなくなってきた。

「えっと……家神様って、最初は普通の魚だったんですよね?」

「たぶん」

撮影台に色鮮やかな茶碗を置いてくれながら、真久部さんはうなずく。

「それが、いつの間に磐座(いわくら)というか、あの割れちゃった柘榴石に変わっちゃったんですか?」

「さあ。同じ滝で拾われた石に、惹きつけられたのかもしれません」

眷属の務めを果たしているうちに、生身のからだでいるより、そちらに宿るほうが楽になってきたのかも? なぁんて、首を傾げて──茶碗の裏も撮影するように、と指示をくれた。

「あ、はい」

パシャ、っと。──椀皿立て、買ってよかった。真久部さんがその存在を教えてくれて、売ってくれたんだけど。まだ(慈恩堂)に並べる前だから、怖がらなくても大丈夫ですよ? なんて胡散臭く笑われ……。いやいや、これはただの木製椀皿立て。普通の道具、だから怪しくないはず。

「でも……そんなふうに神様になるものと、例の招き猫みたいに呪物になるものと、何が違うんでしょうね」

石は、道具というのでもないけど、きれいな柘榴石は鑑賞されるモノだし、招き猫だって同じく鑑賞されるモノではあると思う。ある意味、骨董品仲間なんじゃないかなぁ。

「そうだねぇ……」

真久部さんは考えるように腕を組んだ。

「崇め奉られるのと、ただの道具にされるのとの違いかもしれないね」

「どういうことですか……?」

「道具は道具として使えるけれど、神は祀るか鎮めるかしかない。その違いでしょう」

「……」

わかったようなわからないような、なんとも言えない気持ち。思わず溜息が出てしまう。

「そんな難しく考えることはないですよ、何でも屋さん。決まりごとを守らなければならないのはどちらも同じ。自分の分以上を求めたりせず、道具は使えばいいし、神様は拝んでおけばいいんだよ」

「はあ……」

まあ、そうなのかもしれないけど。

「何でも屋さんは大丈夫ですよ」

にっこり笑って、真久部さん。

「何しろ、きみはうち(慈恩堂)で店番できる貴重な人材。──誇ってもいいんですよ?」

お道化たようにそんなことを言う、悪戯っぽい瞳。今は周囲の照明のせいで、片方の榛色が緑に近い色に見えた。

「……ねえ、真久部さん」

「何ですか? 何でも屋さん」

「この話、つまり、まるで見てきたような(・・・・・・・)“水無瀬家縁起”ですけど──」

当時を知る証人(古道具)から、普通でない方法(変わった能力)で聞き出してきたとしか思えないような、こんな話を。

「水無瀬さんには話したんですか?」

たずねてみると、困ったような笑みが返ってきた。

「出所が出所ですからねぇ……どうしましょうね?」

やっぱり、真久部の伯父さんか! 

──今日は慈恩堂で大人しく店番しているらしい真久部さんの伯父さんが、甥っ子の目がないのをいいことに、店の道具たちと面白おかしく談笑している姿をうっかり想像してしまい。俺は寒さによるものではない鳥肌を、盛大に立ててしまったのだった。
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