第347話 仔猫の話 後編

文字数 3,331文字

「何でも屋さん!」

「あ、田中さん……」

田中さんは、こちらから見ると路地を挟んで左側の家の人だ。草むしりを頼まれることがある。

「そこ通ってきてたの? 大丈夫だった? どこか打ってない?」

矢継ぎ早に掛けてくれる声はどこか焦っている。ひしゃげた車体を恐々と避けながら、それでもこっちに来てくれた。──俺は、また座り込んでいたようだ。

「いや、その……野良猫に構ってたら、ドーンって……」

俺はそう言うしかない。知らなかったんだ、自分があと一、二歩で道路に出るような位置にいたなんて。

気の抜けたような返事を聞いて、田中さんはあからさまに胸をなでおろした。

「良かった。見えないところを怪我したりしてないわね? 猫に感謝かも──。もしかしたら、もろにぶつけられてたかもしれないわよ。……こんな言い方もアレだけど、私も、血まみれの何でも屋さん見なくてすんで、良かったわ……!」

「あ、あの、ドライバーは?」

警察に連絡、と内心の混乱のまま回らない口を開くと、田中さんは、大丈夫よ、と教えてくれた。

「鈴本さんちの息子さんが、通報してくれたって。二階の部屋から丸見えだものね」

「そ、そうですか……」

それなら良かった。

「──何でも屋さん、本当に大丈夫? 顔が真っ青」

「え……あ……」

今ごろ震えが来た。このまま動けなくなりそうだ。それでは困るから、なんとか立ち上がる。

「ちょっと、無理しないで……。うちで休んでいく?」

心配そうな顔に、無理やり笑みを浮かべてみせた。

「いえ、大丈夫です……俺、犬の散歩行かないと」

「でも──」

遠くから、パトカーと救急車のサイレン。そういえば、わりと近いところに警察署があったっけな。そんなことをぼーっと考えつつ、ドライバーを助け出そうとする人たちや野次馬のざわめきを聞く。早朝にもかかわらず、スマホを構えて事故車や怪我人を撮ろうとする何人もの野次馬、近づきすぎた者がいたんだろう、いい加減にしろと叱責する声。

俺、よっぽど頼りなかったのかな、気づけば折り畳み椅子に座らせられていた。田中さんが、顔を出した娘さんに言って、持ってこさせたものらしい。

「どこの犬を散歩に連れて行くの?」

「あ……吉井さんちの、伝さん……」

「ああ、よく何でも屋さんが連れてる大きな犬ね。吉井さんなら電話番号わかるから、事情を話しておいてあげるわ。何でも屋さんは、ほら、目撃はしてないかもしれないけど、まさにその瞬間現場にいたんだし、ほら、警察に証言とか、ね?」

なだめられ、俺はただうなずく。こうして座り込んでみると、今はまともに歩けそうにない。近くなったサイレンの音を聞きながら、俺は思い出していた。

あの仔猫は、俺が助けられなかった仔猫だ。

先月の、八月三十日。俺は野良の仔猫を保護した。暑い最中に生まれたらしい仔猫は、母猫とともに夕方の路上にいたり、雨水の溝や、民家の植え込みの中に潜んだりしていた。仔猫の好奇心か、ちょろちょろ走り回るようになり、俺の自転車の前もよく横切られたものだ。

車に気をつけろよと、猫にはわからないだろうけど、声を掛けずにはいられなかった。
それなのに……。

その日、仔猫は道端で不自然に丸まっていた。俺が近づくと、いつもなら勢いよく逃げていくはずが、じっと丸まったままでいる。まさか、こんなところで眠っているのかとよく見ると、顎のあたりに血がついている。母猫は俺を警戒しているが、逃げるでもなく、子の近くにいる。

仔猫は動かない。暮れる寸前の夕方、雨がポツリ、ポツリと降ってくる。目脂の張りついた目は閉じられたまま、薄く息をしている。撫でようとするとさすがに逃げかけ、野良猫の矜持か、威嚇はしてきたけれど──、それも力なく、すぐ捕まえられる。これでは、明日まで保たない。俺にもそれがわかった。

野良の世界は厳しくて、その寿命は長くても三、四年という。この仔猫みたいな子はいっぱいいる。弱って、疲れ果てて息絶え、鴉に抓まれて連れ去られて……。

それが自然界の掟って、わかってる。わかってるけど──。

痩せこけた小さなからだ。どこか雨の当たらないところで、ひっそりと死んでいくなら、見ないふりができたと思う。なんとも中途半端で狡い、俺の良心。わかってる、俺は狡い。だけど、今、目の前で小さな命が消えようとしている。このまま放置すれば、雨に降られて冷たいまま、確実に息絶えてしまう。

びしょ濡れの小さな骸。冷えて固まって、虫にたかられ、最後は鴉に──。

そう思ったら、もうダメだった。俺はタオルハンカチを取り出し、そこに仔猫をそっと包んだ。遠巻きにしつつも離れない母猫に、「おまえの子、病院に連れて行くから」と告げる。そのまま馴染みの動物病院まで走った。

お願いします、俺、この子飼いますから、と息を弾ませ言う俺に、時間外なのに仔猫を診てくれた先生は「……難しいと思いますよ。でも、やれることはやってみましょう」と言ってくれた。そして、俺の思ったとおり、たぶん車にでもはねられたんだろうと。

仔猫は鼻を打っているらしかった。頭にも影響があるかもしれないと言われたけど、仔猫の生命力に掛けるしかなかった。

だから、俺は仔猫が助かったあとのことを考えた。家には、居候の三毛猫がいる。かつて、盗まれた仔犬を拾って帰ってきたあいつなら、新参の仔猫にもよくしてくれるんじゃないかと思う。もしすぐに仲良くなれなくても、俺の何でも屋事務所兼住居は独り暮らしだ。ケージを設置するくらいの空間はある。

翌日、仕事の合い間を縫って様子を見に行くと、仔猫は少しは餌を食べるという。点滴の管を噛みちぎったと聞いて、元気が出てきたんだと思いたかった。仔猫用の小さなエリザベスカラーを付けられたからだは、くったりと力が無く、冷えている。その冷たさに、胸が重くなる。無言で、そっと触れる俺に、助手さんは、たくさん撫でてあげてください、と言った。きっと助手さんにもわかっていたんだろう。

ふと、心に浮かんだ名前を付け、この名で生きよと、ただ撫で続けていた。
俺の手のぬくもりよ、この小さなからだに伝わり、そして命を繋げてくれ──。

祈りは届かなかった。翌日朝、連絡が来た。覚悟はしていたから驚きは少なかった。けれど、あともう一日生きてくれたらなぁ、と思った。あと一日、もう一日、もっと生きてほしかった。

重い足取りで病院に行き、先生の説明を聞く。それから、申し訳なさそうに助手さんが告げた治療費を払った。手を尽くしてもらったのはわかっているし、それでも及ばないのは神の領域だ。

時間外に受け入れてもらった礼を重ねて言い、スーパーで買ってきた明るい色の花をあの子の箱に入れた。

仔猫の顔は、眠っているみたいだった。

八月の三十日に保護して、三十一日に名前を付け、九月の一日に見送った。たった三日の縁。

事故に遭う前に拾ってやったら、仔猫は今も元気でいただろう。だけど、元気でいるなら、拾わなかった。中途半端に助け、中途半端に後悔する。俺は身勝手だ。

そんな俺を、あの子は助けてくれたのか。

「……」

視界がぼやけそうになる。固く眼を閉じ、上を向く。太陽が顔を出した空は明るくて、目蓋の裏も明るくなる。深い朝焼けの色にも似たその視界の隅を、あの子が駆けていったような気がした。








不思議な話ですね、と店主は言った。
午後、店番に訪れた慈恩堂で。

「俺、夢見てたんでしょうか……」

俺の問いに、店主はわざとらしく首を傾げてみせる。

「お蔭で、事故に遭わなかったのに?」

「……」

「きっと仔猫は、きみにありがとうって言いたかったんだよ、何でも屋さん。白い猫は、そうだねぇ……人間にもいるんだから、猫にいても不思議じゃないかなぁ」

わかりやすく勿体ぶってみせるから、どういうことですか、とたずねてみると。

「霊媒師。あるいは、口寄せ。わかりやすく言えば、イタコかな?」

デミ・ムーア主演のロマンティックな恋愛映画を思い出してもいいけど、と店主はつけ加える。白猫は、ウーピー・ゴールドバーグの役どころだとも。

「きっとその仔猫の願いを聞いて、身を貸してやっていたんでしょう」

真っ白ならば、他の柄も重ねやすいんじゃないですか、なんて機嫌さそうに笑む顔は、いつにもまして古猫に似ていた。
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