第67話 秋の夜長のお月さま 5

文字数 2,163文字

「……」

普通だったら考えられない、と言われても、実際そういう目に遭ったんだし……と思いながらも、何をどう言えばいいか分からなくなって戸惑っていると、店主は、んー、と言葉を探すように唸った。

「そうだ、池だ」

ぽん、と膝を打つ。
俺はぽかんとした。何故、いきなり池?

「池は溜まり水だから、川のような動きは無い。そうですね?」

「は、はあ……」

意図が分からず、ただ頷く。

「でも、鏡みたいに固まって、全く動かないわけじゃないでしょう?」

「──風が吹けば、波は立ちますね。小さいけど」

何とか答えると、その通りです、とよく出来た生徒を褒めるように店主は言った。

「目に見えるような波が立たなくても、池の水は動かないように見えて、実際には様々な動き──流れがあります。日差しによる温度変化で生まれる対流や、水中の生き物たちの営み、そういった外から見えない諸々が相互に干渉しあい、ゆるいけれども複雑な流れを作り出します。時には木の実が落ちて波紋が広がることもあるでしょうし、誰かが麩を投げ入れれば、池に棲む鯉がそれを食べようと挙って水面に集まるでしょう。そうなればかなりの乱流が起こり、周囲に大きな影響を及ぼします」

「……」

何だろう、店主の話を聞いてると、その辺の池が真夏の海水浴場並みににぎやかなところに思えてきた。泳ぐ人、潜る人、泡立つ波。細長いフロートマットに寝そべって漂う人や、ボール遊びをする子供、波間に落ちるビーチボール、そして──。

「そういった千の要素、万の要素で生まれる水の動き、水の流れに干渉し操ることによって、近くの水面に落ちた団栗をひとつ、自分のほうに手繰り寄せた……そう言ったら分かりますか?」

──そして、つき纏う影のように、波間に潜む離岸流。知らない間に沖に吸い寄せられて、生半可な泳力では逃れられない……。

じいっと俺の顔を見つめる店主。口元が、ひくっとなった。

「その団栗って……」

まさか、俺のこと? 目で訊ねると。

「もちろん、あなたのことですよ、何でも屋さん」

そこ、肯定してほしくなかった。俺、うっかり離岸流に乗っちゃってたのか……。

あれよあれよという間に岸から離されて、波間に溺れる自分を幻視してしまった。──俺、別にカナヅチじゃないけど、強い流れに逆らって泳げるほどじゃない。

「……だけど、流れを操って手繰り寄せるって、どうしてそんなに遠回しなんです? もっとこう、直接的に」

今まで見聞きした怪談やホラー映画、不気味な怪異譚から得た知識によると、そういうのって、おどろおどろしく夢に現れて暗示を掛けたり、あるいはもっと分かりやすく、夜闇を纏って唐突に目の前に現れたり、するんじゃないのか、な? テレビの画面から現れ、るのはやめてくれ。俺は呪いのビデオとかは見たくないタチなんだ……!

あの、<髪の隙間からぎょろっと覗く目>を想像して慄く俺の恐怖も知らず、店主は軽く答えてくれる。

「アレにはもう、そんなに強い力が残ってないからですよ。きみを引っ張るほどの強い縁も無い。美味そうな獲物が、たまたま自分の力の及ぶ範囲に入って来た。だから池の水を操って小さな流れを作るように、電車を遅らせ、イノシシを遣わし、バスをエンストさせて、あなたが歩いて自分のところに来るように道筋をつけた。──喰らうために」

「……!」

背筋がぞぞっと寒くなった。止めてくれよ……! 助けを求めるように店主を見ると、片手で顔を覆って嘆くようだった。

「あの指示書と諸々は、単純にお守り代わりのつもりだったんですよ。まさか、本当にそれが必要な事態になるとは思ってもみませんでした」

労災になっちゃうところでしたよ、と店主は深い溜息をつく。<喰われる>って、労災で片付けていいの? 何て恐ろしいんだ、古美術雑貨取扱店。

「まあ、あなたは護りが強いから、仮に何かあっても大丈夫だとは思ってましたが……」

それに、本当に危ないものはここでは扱っていませんよ、と店主は言う。

「決まりごとをきっちり守っていさえすれば、何とかなる。うちで扱うのはそういうものだけです」

「……」

本当かよ、と思いながら店主の顔をじっと見つめていると、仕方なさそうにまた、ふうっと息をつく。

「今回の場合は、煙草に清酒に塩です。これを指示通りに正しく扱っていれば、少々危ない目に遭っても何事もなく無事帰って来れる。──元々、そういうものしか取り扱いません、うちではね」

だから、大丈夫です。店主が強くそう言うので、とりあえず頷いておいた。いや、すごい真剣な目をしてるからさぁ……。そう思っていると、少し和らいだ声で店主は続けた。

「きみを信用してるから、というのもあるんですよ、何でも屋さん。きみはいつもきっちりしていて丁寧だ。手抜きはしない。だから、指示書を見れば必ずその通りにしてくれるという信頼がある。それはきみを護るものだ」

「何だかよく分かりませんけど……」

うん、本当によく分からない。何やら俺を買ってくれているのだけは分かるんだけど。

「今回はお地蔵さんの前で煙草を吸うのが決まりごと、だったんですか?」

分からないから、俺は訊ねてみた。
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