第351話 鏡の中の萩の枝 2
文字数 1,769文字
「──うちは父がね、楽しみの無い人で。仕事、仕事で、趣味も無くて。男手ひとつで僕を育ててくれて、感謝はしてるけど……テレビも見ず、音楽も聴かず、娯楽のために本を読むわけでもなく。休みの日も仕事の書類を広げてパソコンに向かっている背中を見ていたら、僕もテレビを見る気になれなくて」
「……」
「勉強は好きだったから、仕事をしてる父の近くで、いつも勉強してました。そうすると、父はときどき僕のほうを見て、目が合うと微笑んでくれるんです──無口な人でした」
でも物事の要領がよくて、家事なんかもそつなくこなしてました、と鳥居さんは言う。
「旅行にも、連れて行ってはくれました。でも、だいたいどこかの鄙びた温泉か、山登りともいえないハイキング程度かな。人混みが苦手だったんでしょうね。一度、萩が有名なお寺に行ったことがあって……ちょうどシーズンだったのに、あまり人がいなくて。そのせいかな、僕、迷子になっちゃって」
植わってる萩の株のひとつひとつが大きくて、壁みたいに見えたんですよ、と小さく思い出し笑い。
「怖くなって走って、走って。そんなことはないのに、何かに追いかけられてるような気がしてきて、必死になって。迷路みたいだった、その頃の僕は年齢のわりに背が低かったから、よけいにそう思えたんでしょう。つまずいて転んで、ようやく父の僕の名を呼ぶ声が耳に入りました。声を上げると、父が萩を掻き分けて来て、安心した僕は泣きそうになったんですが──僕を抱きしめた父が、先に泣きだして」
静かに、静かに泣くんです、と呟く。
「母は僕が四歳の時に病死して、幼い僕は母を呼びながら毎日泣いてばかりいました。父はいつもそんな僕を抱きしめて、泣き止むまで背中をとんとん叩いてくれていたけど──きっと、父はそうしながら、やっぱり泣いていたんだなと、こんなふうに静かに泣いていたんだなと、子供心に申しわけなくなって、どうしていいのかわからなくなって──」
「……」
「泣きじゃくりながら、お父さん、泣かないでって。そうしてるうちに、僕は眠ってしまって、後のことは覚えてないんだけど──その晩は、久しぶりに一緒の布団で寝たなぁ」
静かな瞳は、遠い思い出を振り返っている。俺はただ黙って話を聞いている。
「父はきっと、僕まで失ったらと、恐怖したんだと思います。息子を、亡き妻の忘れ形見を。──無口で、人に対しては不器用な人だったけど、僕にはいつだって、目で、態度で、愛情を示してくれた。母を失った僕は確かに寂しかったけど、父の、包み込むような愛情に、いつしかそれも薄れていって、ただ、僕は父を大切にしようと、父より先には、絶対死んだりしないと、そう心に決めて……」
言葉は、細い溜息のように風に消える。
「でも父は、倒れてしまった──。手術をして命は助かったけど、すっかり弱ってしまって。見舞いに行くと喜んでくれるけど、それまでのように一緒に暮らせそうにない。貯えがあるからと、父は僕に手術費用も入院費用も出させてくれない。きみの貯金はきみに何かあったときの備えに置いておきなさい、そう言うばかりで」
風が、萩の長く伸びた枝を揺らしていく。
「……お父さんは、きっと心配なんですよ。親ってものは、いつだって子供のことが心配で、その行く道が安全なものであってほしいから──俺にも娘がいるからわかるんです。こういうのは順番だから、親のほうが先に逝く。できれば、子に苦労はしてほしくない」
だから、お父さんも、と言うと、鳥居さんは困ったような、泣きそうな顔で萩を眺めたまま。
「子供だって、親に元気で長生きしてほしいんですよ。世の中、そうでない親子もいるだろうけど、親が子に幸せを望むなら、子だって親に幸せを望む。何もできなくても、そばにいて労わりたい……」
何でも屋さんも、娘さんの気持ちを考えてあげてくださいよ、そう言われ、俺は苦笑いしてしまった。俺も、娘のののかによく心配されている。風邪で高熱出したり、熱中症で倒れたり……。うん、まあ俺が悪い。
「あはは、そうですね……耳が痛いです」
苦笑いする俺に、鳥居さんは言う。
「心配くらいはさせてほしい。父が心配してくれる気持ちもわかるけど──、僕だって心配したい……してしまう。こういう気持ちは同じなんでしょうか? 一方通行なのかな。そうだとすると、寂しいな……」
「……」
「勉強は好きだったから、仕事をしてる父の近くで、いつも勉強してました。そうすると、父はときどき僕のほうを見て、目が合うと微笑んでくれるんです──無口な人でした」
でも物事の要領がよくて、家事なんかもそつなくこなしてました、と鳥居さんは言う。
「旅行にも、連れて行ってはくれました。でも、だいたいどこかの鄙びた温泉か、山登りともいえないハイキング程度かな。人混みが苦手だったんでしょうね。一度、萩が有名なお寺に行ったことがあって……ちょうどシーズンだったのに、あまり人がいなくて。そのせいかな、僕、迷子になっちゃって」
植わってる萩の株のひとつひとつが大きくて、壁みたいに見えたんですよ、と小さく思い出し笑い。
「怖くなって走って、走って。そんなことはないのに、何かに追いかけられてるような気がしてきて、必死になって。迷路みたいだった、その頃の僕は年齢のわりに背が低かったから、よけいにそう思えたんでしょう。つまずいて転んで、ようやく父の僕の名を呼ぶ声が耳に入りました。声を上げると、父が萩を掻き分けて来て、安心した僕は泣きそうになったんですが──僕を抱きしめた父が、先に泣きだして」
静かに、静かに泣くんです、と呟く。
「母は僕が四歳の時に病死して、幼い僕は母を呼びながら毎日泣いてばかりいました。父はいつもそんな僕を抱きしめて、泣き止むまで背中をとんとん叩いてくれていたけど──きっと、父はそうしながら、やっぱり泣いていたんだなと、こんなふうに静かに泣いていたんだなと、子供心に申しわけなくなって、どうしていいのかわからなくなって──」
「……」
「泣きじゃくりながら、お父さん、泣かないでって。そうしてるうちに、僕は眠ってしまって、後のことは覚えてないんだけど──その晩は、久しぶりに一緒の布団で寝たなぁ」
静かな瞳は、遠い思い出を振り返っている。俺はただ黙って話を聞いている。
「父はきっと、僕まで失ったらと、恐怖したんだと思います。息子を、亡き妻の忘れ形見を。──無口で、人に対しては不器用な人だったけど、僕にはいつだって、目で、態度で、愛情を示してくれた。母を失った僕は確かに寂しかったけど、父の、包み込むような愛情に、いつしかそれも薄れていって、ただ、僕は父を大切にしようと、父より先には、絶対死んだりしないと、そう心に決めて……」
言葉は、細い溜息のように風に消える。
「でも父は、倒れてしまった──。手術をして命は助かったけど、すっかり弱ってしまって。見舞いに行くと喜んでくれるけど、それまでのように一緒に暮らせそうにない。貯えがあるからと、父は僕に手術費用も入院費用も出させてくれない。きみの貯金はきみに何かあったときの備えに置いておきなさい、そう言うばかりで」
風が、萩の長く伸びた枝を揺らしていく。
「……お父さんは、きっと心配なんですよ。親ってものは、いつだって子供のことが心配で、その行く道が安全なものであってほしいから──俺にも娘がいるからわかるんです。こういうのは順番だから、親のほうが先に逝く。できれば、子に苦労はしてほしくない」
だから、お父さんも、と言うと、鳥居さんは困ったような、泣きそうな顔で萩を眺めたまま。
「子供だって、親に元気で長生きしてほしいんですよ。世の中、そうでない親子もいるだろうけど、親が子に幸せを望むなら、子だって親に幸せを望む。何もできなくても、そばにいて労わりたい……」
何でも屋さんも、娘さんの気持ちを考えてあげてくださいよ、そう言われ、俺は苦笑いしてしまった。俺も、娘のののかによく心配されている。風邪で高熱出したり、熱中症で倒れたり……。うん、まあ俺が悪い。
「あはは、そうですね……耳が痛いです」
苦笑いする俺に、鳥居さんは言う。
「心配くらいはさせてほしい。父が心配してくれる気持ちもわかるけど──、僕だって心配したい……してしまう。こういう気持ちは同じなんでしょうか? 一方通行なのかな。そうだとすると、寂しいな……」