第288話 疫喰い桜 2
文字数 2,031文字
「お、お久しぶりです……」
この前この人に会ったのっていつだっけ? 胸元の、鯉のループタイがまたつやつやイキイキしてるじゃないか……。曰くつきの桜材を使った一刀彫のアイツに、伯父さんたらまた何を食べさせたんだろ、なんてこと考えたらダメだ! ──芋づる式に怖いことを思い出してしまう。
「えっと、今日は真久部さんに会いに、慈恩堂へ?」
咳払いをして、たずねてみる。それにしては、ここはあの店のある駅裏から遠すぎるけど。
「んー、あの子の顔も見たいところなんだけどねぇ、今日はまあ、別件で」
「そ、そうなんですか」
別件、について聞いてほしそうな顔に見えるのは、きっと気のせい。
「じゃあ、俺はこの辺で──」
「次の仕事かい?」
「え? ええ」
そうだよ、次は浜野さんちの庭先で洗車の予定が入ってる。でかいワゴン車なんだけど、屋根にいっぱい鳥のフンを落とされたんだって。気づいたときにはすっかり乾いてしまっていて、ガソリンスタンドの洗車機では取れなさそうだからって言ってた。
「今日は寒いねぇ、何でも屋さん。風がきつくて」
わざとらしく肩をすぼめてみせて、真久部の伯父さん。いかにも邪気の無さそうな笑みが、嘘くさくて──。
「そうですね。こんなふうに立ちっぱなしだとよけいに。あはは……」
だから、そろそろお互いの目的地に向かいませんか? 俺の言いたいことはわかっているだろうに、知らん顔で伯父さんは続ける。
「ここはひとつ、熱いラーメンでもどうだい?」
ご馳走するよ、とにっこり笑う。甥っ子の真久部さんより数段怪しいから、本能的に俺は逃げを打つ。
「ありがたいですが、もう行かないと。それに、こんな時間に開いてるラーメン屋、このあたりにはないですよ」
わんこたちの散歩には時間かけたけど、まだ九時前だしな。駅前まで戻ったって、早いところで十時開店だ。喫茶店なら七時から開いてるとこあるけど。
「おや? あれは見間違いかな?」
そう言って伯父さんが指さすほうを見ると。
「え?」
誘うように揺れる、赤い暖簾。お地蔵様の涎掛けを思わせる──。
「ほらほら、行こう、何でも屋さん。ラーメン一杯食べるくらい、そう時間もかからないだろう?」
にーっこり。
──いつか見た覚えのある光景に、うっかり動揺した俺は、スタイリッシュ仙人の怪しい笑顔の圧力に負けた。
暖簾をくぐって店に入ると、ふわっと暖かい空気、それにラーメンの美味そうな匂い。カウンターの中には、見覚えのあるラーメン屋の主人がいて、温かいぬくもりのある笑みで迎えてくれた。色白で、穏やかな面差しの──。
……
……
ラーメン屋の親爺というより、保育園の保父さんのように優しげなこの人を見たのは、ここじゃない。ここじゃなくて。
「──<チンとんシャン>って、駅前じゃなかったですか?」
つい、口に出していた。
チンとんシャン。それは幻の店と呼ばれるラーメン屋。不定期開店、先着十名。だから開いてるところを見るのすら奇跡と言われる。俺だって、真久部の伯父さんに連れられて一回入っただけだけど……、それまで食べたことがないほどの美味しさだった。
「そうだねぇ、<チンとんシャン>は駅前だ。でも、この店は……何だったっけね?」
「<走りぎんなん>ですよ」
どんぶりを用意しながら、店主が答える。初めてはっきり聞いたけど、やわらかい、耳に心地よい声だ。この人のこの声で、お経を読んでもらったら気持ちいいだろうなぁ、なんて……。
……
……
ダメだ! 俺は無言でぎゅっと眼を瞑り、頭を振った。うっかり変なことを考えそうになった己を、密かに責める。そうして眼を開けると、伯父さんが俺に向かってニヤリと笑ってみせていた。意味ありげに。
「そうそう、<走りぎんなん>。そして、<あまりりす>でもある」
「へー、そうなんですか」
言葉だけは冷静に。へー、ほー、ふーんだ! 怖がらせようったって、その手には乗らないんだからね! ──<あまりりす>っていうのは、真久部さんも伯父さんとよく行くという、伯父さんち地元のラーメン屋の屋号だ。それ知ってるけど知らんふり。
「おや? 驚かないんだねぇ」
つまらないな、なんて伯父さんは呟いてる。
「真久部さんに聞いてますから」
店自体が“迷い家”だって。
「へえ?」
面白そうに、伯父さん。
「どのお店もオーナーが一緒で、味はすこぶるつきの太鼓判、あんまり美味しいから心も身体も満足して、ちょっとした不調や風邪くらい、すぐ治ってしまうって」
いろいろ端折ったけど、だいたいこんなふうなことを。
「やっぱりあの子は気づいていたのか……」
伯父さんはうれしそう。でも、真久部さんは正直に答えてくれないと思うよ。
「で? 何でも屋さんは怖くないのかね?」
内心のワクワクを隠しもせず全面に押し出して、とても楽しげにたずねてくる。「怖い」って言わせたいんだろうなぁ、と思うけど、でも。
このヒトのこんなふうな期待に、素直に応えるなんてしたくない。それはあまりに無防備、あまりに危険。──それに、シャクでもある。
この前この人に会ったのっていつだっけ? 胸元の、鯉のループタイがまたつやつやイキイキしてるじゃないか……。曰くつきの桜材を使った一刀彫のアイツに、伯父さんたらまた何を食べさせたんだろ、なんてこと考えたらダメだ! ──芋づる式に怖いことを思い出してしまう。
「えっと、今日は真久部さんに会いに、慈恩堂へ?」
咳払いをして、たずねてみる。それにしては、ここはあの店のある駅裏から遠すぎるけど。
「んー、あの子の顔も見たいところなんだけどねぇ、今日はまあ、別件で」
「そ、そうなんですか」
別件、について聞いてほしそうな顔に見えるのは、きっと気のせい。
「じゃあ、俺はこの辺で──」
「次の仕事かい?」
「え? ええ」
そうだよ、次は浜野さんちの庭先で洗車の予定が入ってる。でかいワゴン車なんだけど、屋根にいっぱい鳥のフンを落とされたんだって。気づいたときにはすっかり乾いてしまっていて、ガソリンスタンドの洗車機では取れなさそうだからって言ってた。
「今日は寒いねぇ、何でも屋さん。風がきつくて」
わざとらしく肩をすぼめてみせて、真久部の伯父さん。いかにも邪気の無さそうな笑みが、嘘くさくて──。
「そうですね。こんなふうに立ちっぱなしだとよけいに。あはは……」
だから、そろそろお互いの目的地に向かいませんか? 俺の言いたいことはわかっているだろうに、知らん顔で伯父さんは続ける。
「ここはひとつ、熱いラーメンでもどうだい?」
ご馳走するよ、とにっこり笑う。甥っ子の真久部さんより数段怪しいから、本能的に俺は逃げを打つ。
「ありがたいですが、もう行かないと。それに、こんな時間に開いてるラーメン屋、このあたりにはないですよ」
わんこたちの散歩には時間かけたけど、まだ九時前だしな。駅前まで戻ったって、早いところで十時開店だ。喫茶店なら七時から開いてるとこあるけど。
「おや? あれは見間違いかな?」
そう言って伯父さんが指さすほうを見ると。
「え?」
誘うように揺れる、赤い暖簾。お地蔵様の涎掛けを思わせる──。
「ほらほら、行こう、何でも屋さん。ラーメン一杯食べるくらい、そう時間もかからないだろう?」
にーっこり。
──いつか見た覚えのある光景に、うっかり動揺した俺は、スタイリッシュ仙人の怪しい笑顔の圧力に負けた。
暖簾をくぐって店に入ると、ふわっと暖かい空気、それにラーメンの美味そうな匂い。カウンターの中には、見覚えのあるラーメン屋の主人がいて、温かいぬくもりのある笑みで迎えてくれた。色白で、穏やかな面差しの──。
……
……
ラーメン屋の親爺というより、保育園の保父さんのように優しげなこの人を見たのは、ここじゃない。ここじゃなくて。
「──<チンとんシャン>って、駅前じゃなかったですか?」
つい、口に出していた。
チンとんシャン。それは幻の店と呼ばれるラーメン屋。不定期開店、先着十名。だから開いてるところを見るのすら奇跡と言われる。俺だって、真久部の伯父さんに連れられて一回入っただけだけど……、それまで食べたことがないほどの美味しさだった。
「そうだねぇ、<チンとんシャン>は駅前だ。でも、この店は……何だったっけね?」
「<走りぎんなん>ですよ」
どんぶりを用意しながら、店主が答える。初めてはっきり聞いたけど、やわらかい、耳に心地よい声だ。この人のこの声で、お経を読んでもらったら気持ちいいだろうなぁ、なんて……。
……
……
ダメだ! 俺は無言でぎゅっと眼を瞑り、頭を振った。うっかり変なことを考えそうになった己を、密かに責める。そうして眼を開けると、伯父さんが俺に向かってニヤリと笑ってみせていた。意味ありげに。
「そうそう、<走りぎんなん>。そして、<あまりりす>でもある」
「へー、そうなんですか」
言葉だけは冷静に。へー、ほー、ふーんだ! 怖がらせようったって、その手には乗らないんだからね! ──<あまりりす>っていうのは、真久部さんも伯父さんとよく行くという、伯父さんち地元のラーメン屋の屋号だ。それ知ってるけど知らんふり。
「おや? 驚かないんだねぇ」
つまらないな、なんて伯父さんは呟いてる。
「真久部さんに聞いてますから」
店自体が“迷い家”だって。
「へえ?」
面白そうに、伯父さん。
「どのお店もオーナーが一緒で、味はすこぶるつきの太鼓判、あんまり美味しいから心も身体も満足して、ちょっとした不調や風邪くらい、すぐ治ってしまうって」
いろいろ端折ったけど、だいたいこんなふうなことを。
「やっぱりあの子は気づいていたのか……」
伯父さんはうれしそう。でも、真久部さんは正直に答えてくれないと思うよ。
「で? 何でも屋さんは怖くないのかね?」
内心のワクワクを隠しもせず全面に押し出して、とても楽しげにたずねてくる。「怖い」って言わせたいんだろうなぁ、と思うけど、でも。
このヒトのこんなふうな期待に、素直に応えるなんてしたくない。それはあまりに無防備、あまりに危険。──それに、シャクでもある。