第292話 疫喰い桜 6

文字数 1,301文字

「いつの間に……」

桜の森から眼を離したのなんて、ほんの一分にも満たなかったと思う。だというのに、そこには多くの人影があった。だけど何だろう、花見の散策というより──あれって、歩いてるのかな? かといって、じっと立っているわけでもなく、なんかこう……蠢いてる?

じっと見ていると、桜以外のものの形が曖昧になってくる。うようよと蠢く影たちが、どうしてか砂糖にたかる蟻のようにも思えてきて、気味が悪い──。

「やれやれ、せっかくの桜が……ああ、そろそろ枯れるのが出てきたねぇ」

そんな言葉をどこか遠くに聞きながら、俺は眼を見開いたまま動けなかった。じわじわと、桜の木が枯れる。薄ピンクの綿あめが端から溶けていくように、じくじくと侵食されていく。

「あ、あれは、何ですか?」

上顎に張り付いたようになった舌を、なんとか動かして問うと。

「鬼だよ」

「え?」

「賽の河原に積まれた石を、崩しに来る鬼さね」

鬼……? でも、角があるわけでもなく、金棒を持っているわけでもなく。みんな普通にその辺にいる人と同じに見える……見えてた、つもりだったけど、ただ黒くてモヤモヤしてる、アレは、何?

「操られているのさ、あいつらは。報恩謝徳の桜を狙って」

「ほうおんしゃとくの桜?」

「ああ。ここに咲く花は、すべてがそうだよ。地蔵菩薩の恩に報いて、人の深い感謝の気持ちがこうして桜の木に成ったのだ。それからは、どこかで誰かが有り難いと思うたび、綺麗な花がひとつ咲くのさ。良い話だろう?」

「……」

意味が、よくわからない。例え話ではなさそうで、かといって本当のことだとすれば、この場所は一体……。

「始まりは、そう、幼くて死んだ子を思う親の願い、親を慕う子の願い。それはつまり死に戻しと死に戻り、叶わぬ願いに他ならない。娑婆に戻すも戻るもできぬで、願いに縛られ縛りあう。けれども、地蔵菩薩がいらっしゃる──」

 
  ひとつ積んでは父のため
  ふたつ積んでは母のため……
 
  なぜに我が子は死んだかと
  (むご)や哀れや不憫やと
  親の嘆きは汝らの
  責苦を受くる種となり……


頭の中に、いつかどこかで聞いたうたが浮かぶ。

「地蔵菩薩におすがりすれば、虚しい寂しい膠着状態が解け、互いに時間が動き出す。どちらも歩き出すことができる。親は日常へ、子は地蔵菩薩とともに冥途の旅へと」


  なにを嘆くか嬰児(みどりご)
  汝ら命短くて
  冥途の旅に来るなり……
 
  今日よりのちは我をこそ
  冥途の親と思うべし

  幼きものを御衣の
  袖や袂に抱きいれて
  哀れの給うぞありがたや……


「……!」

思い出した。さっき真久部の伯父さんが謡ってたのって、地蔵和讃の出だしだ。話し相手をしていると、よく小野のお婆ちゃんが謡ってくれるから、俺、ところどころ覚えてる。「これはこの世のことならず 賽の河原のものがたり──」ってことは、ここは。

「こ、ここっ、賽の河原……?」

まさか、ええ? 俺、生きてるよな? 

「いや、でも賽の河原って、ごろごろした石だらけのところなんじゃ……」

俺、生きてるし。……生きてるはず。

「昔はそうだったらしいがねぇ、いつの間にかこんなふうになっていたというよ。()()()が言っていた」
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