第233話 アリス症候群
文字数 1,816文字
「──そういえば、ちょっと信じられないこともあったなぁ……。絵の具で塗ったみたいな青い犬に吠えられて……」
今はもうちっとも怖くない、子供の頃のおかしな思い出。つい、くすっと笑ってしまう。
「びっくりして、転んで泣いたのを覚えてるんですけど……、それがまた、頭が三つある、家くらいに大きな犬だったんですよね。今思えば、あれはミニチュアシュナウザーくらいの小型犬だったのかもしれません。でも幼稚園児だったそのときの俺には、怪獣のようにでっかく見えたんです。頭が三つだったのは、三匹いたのか、恐怖でそんなふうに見えただけなのか……」
絵本か何かで『地獄の番犬 』というものを知ってからは、あれがそのケルベロスだったんだと、実は中学生くらいまで密かに思ってた。……年齢上がって小学校中学年くらいになれば、そんなわけないって気づくだろ、と言われそうだけど、確かに見た記憶 があるからさ。──何でか誰にも、弟にすら話すことはなかったんだけども。
──そんな俺の微妙なノスタルジーなんか知るはずないのに、真久部さんは何もかもわかっているような慈悲深い笑みを浮かべている。
「七つまでは神の内、と言いますけど、まだまだ幼児のうちはねぇ。母親のお腹から人の世に産まれてきて、まだファーストコンタクトの段階だからかもしれませんねぇ……」
「ファースト、コンタクト?」
何だっけ、初めての接触、だっけ? 今のどの文脈でそんな言葉が。不思議に思っていると、真久部さんが澄ました顔で続ける。
「人間の意識、というものがいつ生まれるのかわからないけど、とにかく産まれ出た瞬間に、どっと世界が雪崩れ込んでくるわけですよ」
「は、はぁ……」
「まだ目の見えないうちは、光と音を感じて。目が開いたら、さらに感覚が広がって。そうして、理解という言葉すら追いつかないくらい、複雑で奇妙な、謎に満ちた世界の真っ只中に放り出されるわけです」
「……」
そ、そんな大層なもんだったんだろうか? 産まれたときのことなんか覚えてない──。
「それまで意識無く過ごしてきたどこかの世界と、産まれてきたこの世界との境が曖昧で、幼い子供は調節に苦労するんですよ。──大人たちは既にこの世界に適応してしまって、そんなことはすっかり忘れているけれど」
「調節、ですか……」
よくわからないけど、この世界に生まれ出て、初めて出会った意味のわからないものを、自分にとって理解できるものに置き換える作業──そう考えると、すごく大変なことのように思えてきた。
「何でも屋さんは、<不思議の国のアリス症候群>というものを知ってますか?」
単に<アリス症候群>とも略されますけど、と言われても、そんなファンシーなシンドロームの名前、初めて聞いた。いや、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』は読んだことあるけども。
「いえ、小説なら読んだことありますけど、そういう症状? の名前は聞いたことないです」
何かロリコン的な病? 俺、そういう気 はないんだけど。子供はみんな可愛いし、保護しなきゃと思うだけだ。
「お話の中で、主人公のアリスが不思議の国で体験したことから来てるんですよ。遠近感が極端におかしくなったり、物の大小が異様に違うように見えたり、そういった症状のことを指すんです」
自分の指が人の頭より大きく見えたり、逆に、周囲に対して自分が虫のように小さく感じたり、色の見え方も違ったりするそうですよ、と真久部さんは補足してくれる。
「あ、俺の“青い犬”……」
耳まで裂けた口で幼児の俺を一呑みに出来そうだった、どでかい三つ頭の“ケルベロス”。それが、真久部さんの言う<アリス症候群>の産物ってこと──? 恐る恐るたずねてみると、しっかりうなずかれてしまった。
「そうだと思いますよ。その記憶、現実感はもうないでしょう?」
今思い出しても、もう夢の中の出来事みたいじゃないですか、と言われてみると、確かに記憶と夢が混ぜこぜになって分かち難くなっていることに気づいた。つまり、現実感のげの字もないってことだ。
「それは大人になったからだよ。でも、まだ“神のうち”にあった頃のきみにとっては現実だった」
「……」
ああ、うっすらと思い出してきた。あの頃、怖いものがいっぱいあった。ただ、一緒に産まれてきた一卵性双生児の弟だけ怖くなかった。
「<アリス症候群>というのは、ラジオのチューナーを合わせる経過の現象みたいなものかなぁ……」
呟くように、真久部さんは言う。
今はもうちっとも怖くない、子供の頃のおかしな思い出。つい、くすっと笑ってしまう。
「びっくりして、転んで泣いたのを覚えてるんですけど……、それがまた、頭が三つある、家くらいに大きな犬だったんですよね。今思えば、あれはミニチュアシュナウザーくらいの小型犬だったのかもしれません。でも幼稚園児だったそのときの俺には、怪獣のようにでっかく見えたんです。頭が三つだったのは、三匹いたのか、恐怖でそんなふうに見えただけなのか……」
絵本か何かで『
──そんな俺の微妙なノスタルジーなんか知るはずないのに、真久部さんは何もかもわかっているような慈悲深い笑みを浮かべている。
「七つまでは神の内、と言いますけど、まだまだ幼児のうちはねぇ。母親のお腹から人の世に産まれてきて、まだファーストコンタクトの段階だからかもしれませんねぇ……」
「ファースト、コンタクト?」
何だっけ、初めての接触、だっけ? 今のどの文脈でそんな言葉が。不思議に思っていると、真久部さんが澄ました顔で続ける。
「人間の意識、というものがいつ生まれるのかわからないけど、とにかく産まれ出た瞬間に、どっと世界が雪崩れ込んでくるわけですよ」
「は、はぁ……」
「まだ目の見えないうちは、光と音を感じて。目が開いたら、さらに感覚が広がって。そうして、理解という言葉すら追いつかないくらい、複雑で奇妙な、謎に満ちた世界の真っ只中に放り出されるわけです」
「……」
そ、そんな大層なもんだったんだろうか? 産まれたときのことなんか覚えてない──。
「それまで意識無く過ごしてきたどこかの世界と、産まれてきたこの世界との境が曖昧で、幼い子供は調節に苦労するんですよ。──大人たちは既にこの世界に適応してしまって、そんなことはすっかり忘れているけれど」
「調節、ですか……」
よくわからないけど、この世界に生まれ出て、初めて出会った意味のわからないものを、自分にとって理解できるものに置き換える作業──そう考えると、すごく大変なことのように思えてきた。
「何でも屋さんは、<不思議の国のアリス症候群>というものを知ってますか?」
単に<アリス症候群>とも略されますけど、と言われても、そんなファンシーなシンドロームの名前、初めて聞いた。いや、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』は読んだことあるけども。
「いえ、小説なら読んだことありますけど、そういう症状? の名前は聞いたことないです」
何かロリコン的な病? 俺、そういう
「お話の中で、主人公のアリスが不思議の国で体験したことから来てるんですよ。遠近感が極端におかしくなったり、物の大小が異様に違うように見えたり、そういった症状のことを指すんです」
自分の指が人の頭より大きく見えたり、逆に、周囲に対して自分が虫のように小さく感じたり、色の見え方も違ったりするそうですよ、と真久部さんは補足してくれる。
「あ、俺の“青い犬”……」
耳まで裂けた口で幼児の俺を一呑みに出来そうだった、どでかい三つ頭の“ケルベロス”。それが、真久部さんの言う<アリス症候群>の産物ってこと──? 恐る恐るたずねてみると、しっかりうなずかれてしまった。
「そうだと思いますよ。その記憶、現実感はもうないでしょう?」
今思い出しても、もう夢の中の出来事みたいじゃないですか、と言われてみると、確かに記憶と夢が混ぜこぜになって分かち難くなっていることに気づいた。つまり、現実感のげの字もないってことだ。
「それは大人になったからだよ。でも、まだ“神のうち”にあった頃のきみにとっては現実だった」
「……」
ああ、うっすらと思い出してきた。あの頃、怖いものがいっぱいあった。ただ、一緒に産まれてきた一卵性双生児の弟だけ怖くなかった。
「<アリス症候群>というのは、ラジオのチューナーを合わせる経過の現象みたいなものかなぁ……」
呟くように、真久部さんは言う。