第216話 竈と猫 3 飾りじゃないのよかまどは
文字数 2,052文字
「そうは言っても、板長の場合はなんとなく後ろめたかった、というだけだったようですが」
「そりゃまた何で」
うっかりぶつかりでもして、どっか欠けちゃったのを黙ってたとか? とたずねてみると、そういうんじゃないんです、と首を振る。
「かまどをただの飾り物として扱うことがね、後ろめたかったんだそうだよ」
「あー……」
わからなくもないかな、そういうの。
「板長がね、子供の頃に預けられていた祖父母の家では曾祖父母とともにかまどが現役で、年に何度か餅を搗くときはかまどで蒸した餅米を使っていたそうです。日常の簡単な煮炊きは台所に新しく作ったコンロ台でやってたそうだけど、それ以外の、祝い事、行事ごとの場合は必ずかまどで蒸したお強 か、ご飯だったらしいよ」
そこの集落ではかまどを神聖視する風習が残っていたんですね、と真久部さんは続ける。
「板長は、そのかまどで沸かしたお湯で産湯を使ったんだそうです。だから、かまどは大切にしなさい、かまどの火は神様だと思って畏れ敬う心を忘れないようにしなさい、火はありがたいが、取り扱いを間違うと大きな禍になる、だから侮ってはいけない、神様に叱られると、ずっと言われて育ったんだそうです」
「火は……そうですよね。マッチ一本火事の元」
火花ひとつで粉塵爆発、って話もあるしな。怖っ!
「ええ。火は周りにあるものをじわじわ舐め取り呑み込むと風を呼び、瞬く間に膨れ上がって巨大な火の龍となる。そうなってしまえば、全てを焼き尽くすまで止まってはくれない。どんな小さな、たとえほんの爪の先ほどの大きさしかなくても、火はそれほどの力を秘めている。でも、畏み畏み崇め奉り、なだめつつおだてつつ機嫌を取れば、火は人の小さな営みにも力を貸してくれる。かまどはそのための場であり、結界であるのだと」
あちらとこちら、神と人、火と燃えるものを隔てるもの。そう言われると、かまどがとてつもなく神聖なものに思えてくる。実際、昔はそうだったんだろうな、とも思う。今は簡単に安全に火を扱えるようになったけど、焚き火しかなかった頃は、暴れる火の力を上手く使えなかった──これは林間学校とかで飯盒炊爨をしたことがあれば、簡単に想像できることだと思うんだ。
ただの焚き火の上で、飯盒だと火加減だけ見てればいいけど、フライパンとか持って火の側にいるのは熱いし危ないし、とても調理するどころじゃないだろう。簡易でも、やっぱりかまどが必要だ。薪を無駄にしないためにも、火傷をしないためにも。そう考えてみると、たしかに“結界”だよなぁ、かまど。火の納まる“場”と、火の影響を受けない“場”の外と。“結界”を越えて、人が火の領域に立ち入ることはできないんだ。
ああ、粉塵爆発なんて、その“結界”も何もない“場”の最たるものかもしれない。あちらとこちらが曖昧どころかけじめもなく繋がって、一瞬にして顕れた火の龍に呑み込まれてしまうんだから。
「──板長さん、そんなふうに大切に思って育ってきたんなら、そりゃ飾り物扱いは後ろめたいでしょうね……」
けじめ、大事。人を守ってくれる結界、ありがたい。飾りじゃないのよかまどは、と板長は言いたかったんだろうな。
「とはいえ、雇われの身ではねぇ……。オーナーが飾るっていうなら、反対はできなかったと思うよ。最初は入り口に据えてたそうだから、板場に関係ないといえばないですしね」
でも、こうも怪異が続くとなると、さすがに知らぬ顔をするのは無理だとなり、板長はオーナーに、かまどを元の場所に戻してもらえないかと直談判したんだそうですよ、と真久部さんは言う。
「今のままでは自分も恐ろしいし、帳場の若い衆は今にも逃げそう。客商売には百戦錬磨の接客スタッフのリーダーも、鳴釜の音を聞いてしまってからはとても一人で入れないと、誰か他のスタッフが来るのを店の前で待っている。そんな状態では、開店してもまともに営業できるとは思えない、とね」
「……オーナーさんは何て答えたんですか?」
俺だってそんなところで働くのは嫌だ……。
「悪い冗談はよせと、最初は一笑に付したといいますよ」
「まあ、普通の反応ですよね……」
でも、スルーできるものと、そうでないものがあると思うんだ。──俺はこの慈恩堂の店内の、怪しい品物たちにちらりと目をやり、すぐに戻した。小判を抱えた招き猫は、いつの間にか顔を洗うのをやめていた。良かった。その隣にある赤い魚を抱えた招き猫は……なんか、畳部屋の床の間の掛軸に描かれた鯰を狙ってるみたい……。
「何でも屋さん?」
呼ばれて、ハッとした。危ない危ない。
「いやあ、はは。スルーできるものなら、誰だってスルーしたいですよね」
あはは。と笑ってお茶を飲んでいると、ちらりと店の中を流し見た真久部さん、俺の顔に視線を戻して意味ありげに微笑んだ。
「ふふ。そうできるものなら、そうするのが一番です。でも、それだと収まらないことも世の中にはあってねぇ」
う。そんなふうににっこりされると、怪しい古猫を相手にしてるみたいで、怖いです、真久部さん。
「そりゃまた何で」
うっかりぶつかりでもして、どっか欠けちゃったのを黙ってたとか? とたずねてみると、そういうんじゃないんです、と首を振る。
「かまどをただの飾り物として扱うことがね、後ろめたかったんだそうだよ」
「あー……」
わからなくもないかな、そういうの。
「板長がね、子供の頃に預けられていた祖父母の家では曾祖父母とともにかまどが現役で、年に何度か餅を搗くときはかまどで蒸した餅米を使っていたそうです。日常の簡単な煮炊きは台所に新しく作ったコンロ台でやってたそうだけど、それ以外の、祝い事、行事ごとの場合は必ずかまどで蒸したお
そこの集落ではかまどを神聖視する風習が残っていたんですね、と真久部さんは続ける。
「板長は、そのかまどで沸かしたお湯で産湯を使ったんだそうです。だから、かまどは大切にしなさい、かまどの火は神様だと思って畏れ敬う心を忘れないようにしなさい、火はありがたいが、取り扱いを間違うと大きな禍になる、だから侮ってはいけない、神様に叱られると、ずっと言われて育ったんだそうです」
「火は……そうですよね。マッチ一本火事の元」
火花ひとつで粉塵爆発、って話もあるしな。怖っ!
「ええ。火は周りにあるものをじわじわ舐め取り呑み込むと風を呼び、瞬く間に膨れ上がって巨大な火の龍となる。そうなってしまえば、全てを焼き尽くすまで止まってはくれない。どんな小さな、たとえほんの爪の先ほどの大きさしかなくても、火はそれほどの力を秘めている。でも、畏み畏み崇め奉り、なだめつつおだてつつ機嫌を取れば、火は人の小さな営みにも力を貸してくれる。かまどはそのための場であり、結界であるのだと」
あちらとこちら、神と人、火と燃えるものを隔てるもの。そう言われると、かまどがとてつもなく神聖なものに思えてくる。実際、昔はそうだったんだろうな、とも思う。今は簡単に安全に火を扱えるようになったけど、焚き火しかなかった頃は、暴れる火の力を上手く使えなかった──これは林間学校とかで飯盒炊爨をしたことがあれば、簡単に想像できることだと思うんだ。
ただの焚き火の上で、飯盒だと火加減だけ見てればいいけど、フライパンとか持って火の側にいるのは熱いし危ないし、とても調理するどころじゃないだろう。簡易でも、やっぱりかまどが必要だ。薪を無駄にしないためにも、火傷をしないためにも。そう考えてみると、たしかに“結界”だよなぁ、かまど。火の納まる“場”と、火の影響を受けない“場”の外と。“結界”を越えて、人が火の領域に立ち入ることはできないんだ。
ああ、粉塵爆発なんて、その“結界”も何もない“場”の最たるものかもしれない。あちらとこちらが曖昧どころかけじめもなく繋がって、一瞬にして顕れた火の龍に呑み込まれてしまうんだから。
「──板長さん、そんなふうに大切に思って育ってきたんなら、そりゃ飾り物扱いは後ろめたいでしょうね……」
けじめ、大事。人を守ってくれる結界、ありがたい。飾りじゃないのよかまどは、と板長は言いたかったんだろうな。
「とはいえ、雇われの身ではねぇ……。オーナーが飾るっていうなら、反対はできなかったと思うよ。最初は入り口に据えてたそうだから、板場に関係ないといえばないですしね」
でも、こうも怪異が続くとなると、さすがに知らぬ顔をするのは無理だとなり、板長はオーナーに、かまどを元の場所に戻してもらえないかと直談判したんだそうですよ、と真久部さんは言う。
「今のままでは自分も恐ろしいし、帳場の若い衆は今にも逃げそう。客商売には百戦錬磨の接客スタッフのリーダーも、鳴釜の音を聞いてしまってからはとても一人で入れないと、誰か他のスタッフが来るのを店の前で待っている。そんな状態では、開店してもまともに営業できるとは思えない、とね」
「……オーナーさんは何て答えたんですか?」
俺だってそんなところで働くのは嫌だ……。
「悪い冗談はよせと、最初は一笑に付したといいますよ」
「まあ、普通の反応ですよね……」
でも、スルーできるものと、そうでないものがあると思うんだ。──俺はこの慈恩堂の店内の、怪しい品物たちにちらりと目をやり、すぐに戻した。小判を抱えた招き猫は、いつの間にか顔を洗うのをやめていた。良かった。その隣にある赤い魚を抱えた招き猫は……なんか、畳部屋の床の間の掛軸に描かれた鯰を狙ってるみたい……。
「何でも屋さん?」
呼ばれて、ハッとした。危ない危ない。
「いやあ、はは。スルーできるものなら、誰だってスルーしたいですよね」
あはは。と笑ってお茶を飲んでいると、ちらりと店の中を流し見た真久部さん、俺の顔に視線を戻して意味ありげに微笑んだ。
「ふふ。そうできるものなら、そうするのが一番です。でも、それだと収まらないことも世の中にはあってねぇ」
う。そんなふうににっこりされると、怪しい古猫を相手にしてるみたいで、怖いです、真久部さん。