第162話 煙管の鬼女 10 終
文字数 2,170文字
「……」
寂しい女の小さな背中が、一歩踏み出すたび暗い闇に消えて行くのが見えるようで、俺は何も言えなかった。
「約束を反故にした男は、二つの罪咎を負う。ひとつめはそのまま約束を破ったこと、二つめは別の女を不幸にしたこと」
“虞美人”を使った女に良くないことが起こる、それは元はといえば男が約束を違えたせい、約束を守っていれば起こらなかったことだから──。太夫の彼女はその罪をも背負っていくのだという。
「元の太夫はきっと、見掛けよりずっと尽くすタイプだったんでしょうね」
いい女だったんだろうねぇ、と真久部さんは言う。
「いらない罪まで背負うくらいなら、たまに別の女が使うくらい我慢すればいいのに、という考えもあるでしょうが、これは彼女と男の約束事。それを破るということは、男が“虞美人”を使った女を呪うとイコールになるんだよ、そのつもりが無くても」
「……? どういうことですか?」
ややこしくてわからなくなってきた。
「そうですねぇ……『この果物を食べるのはあなただけにしてください。他の女には絶対食べさせてはいけません』と言われ、そうすると約束したのに、男は違う女にも食べさせてしまった。でもその果物は男が食べればひとときの美味だが、女が食べれば猛毒──。約束通り女に食べさせなければ、その女も死なずに済んだものを……つまりは注意義務を怠ったための過失致死罪、といったところでしょうか」
実際は毒ではなく、“虞美人”は煙管というひとつの道具であり、これは男は呪わないが女は呪うという、そういう性質の呪具なんですよ、と説明する。
「呪いによって女は不幸になり、呪いだからそれは必ず返る。だけど返った呪いを彼女が引き受けてくれるから、男は無事でいられる」
えーと……と俺は考えた。
「『この鉄砲は女が撃つと暴発するから貸すな』というのに、貸すからやっぱり女が死ぬか怪我をして、暴発したその破片が男にも飛んでくるのを、彼女が身を挺して庇ってくれている、みたいな……?」
俺のたとえに、真久部さんはそうですね、と微苦笑で受ける。そう、男が女に使わせなければ、何の危険もないんですよ、と。
「だからね、取り扱いはとても簡単だと思いませんか?」
俺はうなずいた。
「全然まったく難しいことじゃないですね」
何で守れなかったんだろう。やっぱり──。
「軽く考えてたのかなぁ……」
つい溜息を吐いてしまう。最初の男はそれくらい守ればよかったのに。そうすれば彼女もきっとこんなことにはならなかっただろうに。
「太夫の彼女は身の程を弁えた、物分りのいい女だったんでしょうけど、そういう女性の願い事は、ささやかであるばあるほど、軽んじてはいけないものですよ」
たかが戯言と、甘く見てはいけない。そう真久部さんは言う。
「我が侭な女の百の願い事のうちのひとつと、物分りのいい女のたったひとつの願い事。どちらのほうが重いかは、考えなくてもわかるでしょう? 物分りのいい女だって、本当はたくさんの願いを隠してるんですよ。叶えられるはずはないと、諦めてるだけなんです」
「……」
「百のうち、九十九は諦める。だから最後のひとつだけはと、小さな小さな願い事をするんです。ほんとうにささやかで、相手の負担にならないようにと一所懸命考えて、簡単に叶えられるような願い事を。それを無碍にされたときの悲しさ惨めさ遣る瀬無さ──。怒りと恨みに転じるには充分です」
でも、そうなることを太夫の彼女は多分わかっていたんでしょう、と続ける。
「それでも。もしかしたら。小さな願い、ささやかな約束であるゆえに、男は守ってくれるかもしれないと、一縷の望みを掛けて……はかない約束の破られたときの怒りと恨みは男には向けず、己に向けるようにしてね。それで鬼になろうとも。──健気でしょう、彼女は」
真久部さんがまた“虞美人”に目をやるので、俺もあらためてじっと見てみた。秋の野に佇む鬼女が、春の野に舞う美しい女人に戻れるときがまた来るんだろうか。
「いい女ですね、彼女は……」
「きっと、苦界というところを誰よりも理解していたんでしょう。源平藤橘四姓に枕を交わす……金を積まれれば誰にでも身体を開かねばならぬ定めの遊女の頂点にいてね。煙管のように小さくて、役に立てるものならば、己の代わりに男に大事にしてもらえ、苦界の外にも出られるかもしれない──そう願ったのかもしれません」
「……本当にささやかな願いですね」
しんみりしてしまった俺に、真久部さんが笑いかけてくれた。
「また<約束>してあげてくださいよ、何でも屋さん。次は春に出してこようと思っています。<男>が彼女に<約束>し続けるのが“虞美人”にとって大切なことなんですから」
小さな願いを忘れずに、そっと救い上げてくれるような、そんなやさしい<男>を演じれば、と続ける。
「それさえ守れば、彼女に不満はありません。たとえ──浮気をしてもね」
にっこりと、きれいな笑みでそんなことを言う真久部さんは、悪い男かもしれない。
「……」
だけど、たとえ欺瞞であろうと、太夫の彼女が春の野辺で微笑むことができるなら、俺も悪い男でいいと思い……。
心の中で祈った。今も苦界にあるのかもしれない彼女の魂が、いつか<約束>という細い細い蜘蛛の糸を伝い、極楽に往生できますように、彼女の寂しい心が救われる時が来ますように、と。
寂しい女の小さな背中が、一歩踏み出すたび暗い闇に消えて行くのが見えるようで、俺は何も言えなかった。
「約束を反故にした男は、二つの罪咎を負う。ひとつめはそのまま約束を破ったこと、二つめは別の女を不幸にしたこと」
“虞美人”を使った女に良くないことが起こる、それは元はといえば男が約束を違えたせい、約束を守っていれば起こらなかったことだから──。太夫の彼女はその罪をも背負っていくのだという。
「元の太夫はきっと、見掛けよりずっと尽くすタイプだったんでしょうね」
いい女だったんだろうねぇ、と真久部さんは言う。
「いらない罪まで背負うくらいなら、たまに別の女が使うくらい我慢すればいいのに、という考えもあるでしょうが、これは彼女と男の約束事。それを破るということは、男が“虞美人”を使った女を呪うとイコールになるんだよ、そのつもりが無くても」
「……? どういうことですか?」
ややこしくてわからなくなってきた。
「そうですねぇ……『この果物を食べるのはあなただけにしてください。他の女には絶対食べさせてはいけません』と言われ、そうすると約束したのに、男は違う女にも食べさせてしまった。でもその果物は男が食べればひとときの美味だが、女が食べれば猛毒──。約束通り女に食べさせなければ、その女も死なずに済んだものを……つまりは注意義務を怠ったための過失致死罪、といったところでしょうか」
実際は毒ではなく、“虞美人”は煙管というひとつの道具であり、これは男は呪わないが女は呪うという、そういう性質の呪具なんですよ、と説明する。
「呪いによって女は不幸になり、呪いだからそれは必ず返る。だけど返った呪いを彼女が引き受けてくれるから、男は無事でいられる」
えーと……と俺は考えた。
「『この鉄砲は女が撃つと暴発するから貸すな』というのに、貸すからやっぱり女が死ぬか怪我をして、暴発したその破片が男にも飛んでくるのを、彼女が身を挺して庇ってくれている、みたいな……?」
俺のたとえに、真久部さんはそうですね、と微苦笑で受ける。そう、男が女に使わせなければ、何の危険もないんですよ、と。
「だからね、取り扱いはとても簡単だと思いませんか?」
俺はうなずいた。
「全然まったく難しいことじゃないですね」
何で守れなかったんだろう。やっぱり──。
「軽く考えてたのかなぁ……」
つい溜息を吐いてしまう。最初の男はそれくらい守ればよかったのに。そうすれば彼女もきっとこんなことにはならなかっただろうに。
「太夫の彼女は身の程を弁えた、物分りのいい女だったんでしょうけど、そういう女性の願い事は、ささやかであるばあるほど、軽んじてはいけないものですよ」
たかが戯言と、甘く見てはいけない。そう真久部さんは言う。
「我が侭な女の百の願い事のうちのひとつと、物分りのいい女のたったひとつの願い事。どちらのほうが重いかは、考えなくてもわかるでしょう? 物分りのいい女だって、本当はたくさんの願いを隠してるんですよ。叶えられるはずはないと、諦めてるだけなんです」
「……」
「百のうち、九十九は諦める。だから最後のひとつだけはと、小さな小さな願い事をするんです。ほんとうにささやかで、相手の負担にならないようにと一所懸命考えて、簡単に叶えられるような願い事を。それを無碍にされたときの悲しさ惨めさ遣る瀬無さ──。怒りと恨みに転じるには充分です」
でも、そうなることを太夫の彼女は多分わかっていたんでしょう、と続ける。
「それでも。もしかしたら。小さな願い、ささやかな約束であるゆえに、男は守ってくれるかもしれないと、一縷の望みを掛けて……はかない約束の破られたときの怒りと恨みは男には向けず、己に向けるようにしてね。それで鬼になろうとも。──健気でしょう、彼女は」
真久部さんがまた“虞美人”に目をやるので、俺もあらためてじっと見てみた。秋の野に佇む鬼女が、春の野に舞う美しい女人に戻れるときがまた来るんだろうか。
「いい女ですね、彼女は……」
「きっと、苦界というところを誰よりも理解していたんでしょう。源平藤橘四姓に枕を交わす……金を積まれれば誰にでも身体を開かねばならぬ定めの遊女の頂点にいてね。煙管のように小さくて、役に立てるものならば、己の代わりに男に大事にしてもらえ、苦界の外にも出られるかもしれない──そう願ったのかもしれません」
「……本当にささやかな願いですね」
しんみりしてしまった俺に、真久部さんが笑いかけてくれた。
「また<約束>してあげてくださいよ、何でも屋さん。次は春に出してこようと思っています。<男>が彼女に<約束>し続けるのが“虞美人”にとって大切なことなんですから」
小さな願いを忘れずに、そっと救い上げてくれるような、そんなやさしい<男>を演じれば、と続ける。
「それさえ守れば、彼女に不満はありません。たとえ──浮気をしてもね」
にっこりと、きれいな笑みでそんなことを言う真久部さんは、悪い男かもしれない。
「……」
だけど、たとえ欺瞞であろうと、太夫の彼女が春の野辺で微笑むことができるなら、俺も悪い男でいいと思い……。
心の中で祈った。今も苦界にあるのかもしれない彼女の魂が、いつか<約束>という細い細い蜘蛛の糸を伝い、極楽に往生できますように、彼女の寂しい心が救われる時が来ますように、と。