第325話 芒の神様 4
文字数 2,083文字
「へ?」
いきなり何を? あ、写真でも撮るのかな? 薄をバックに和服の真久部さん。映えるかも。でも、そんなことくらい、仕事でなくても喜んでさせてもらうのに。
「見ててほしいんだよ」
「何を?」
「僕はこれから薄の中を歩くので、それを。もし何でも屋さんから見て何か変だと思ったら、声を掛けてほしいんです」
「変、ですか……?」
歩いてて、変? よくわからない。
「姿が見えなくなったりとか──まあ、おかしなことが起こったら、呼んでほしいんだよ、僕を」
「ええと、真久部さんを見張っていればいいんですね? プールの監視員みたいに」
海みたいな薄の原で、揺れる穂波の下に、真久部さんが溺れたり、沈んだりしないように気をつけていればいいってこと? なぁんてね。そんなわけもないだろうけど。
「プールの監視員、ですか?」
いつのも胡散臭い笑みが、ちょっとだけほんわり緩んだ。
「やっぱり何でも屋さんは面白いですね──。ああ、そうだね、そんな感じで見張っていてほしいんだよ」
「はあ……」
頼みましたよとにっこり笑って、真久部さんは高台から続くいくつもの細道のひとつを選び、歩いていった。
ただ踏み固められただけの道が、丈高い薄の間に消えてゆく。羽織の背中が遠ざかる。
「……」
揺れる薄。風にいっせいに靡いているように見えるけど、よく見てみると薄の穂って、出る角度がそれぞれ少しずつ違う。だからか、揺れるタイミングも微妙に違ってくる。
ふわっと揺れる、ふっと斜めに揺れる、するっと揺れてまたふわりとそよぐ。穂の一本一本が指のようで、そうするとやっぱり薄の穂は招く手のようで、その手が何千何万と──。
「真久部さん!」
思わず、俺は声を上げた。その瞬間、揺れ動く穂波の向こうに薄れかけていた着物姿が、レンズを拭ったようにはっきりして、何故だかほっとした……って、あれ? 今のは何だろう? 何かおかしい。何か変だ。視界を埋める薄の原が、真久部さんの全身を絡め取ろうとしてるみたいで──。
また風が吹いて、何事もなく歩く姿が波のように泡立ち騒ぐ薄の間から見える。
「真久部さん!」
「──はい」
もう一度大きい声で呼ぶと、良かった、返事があった。けっこう離れたかな? 真久部さんたら足が速いな。薄は背が高くて、場所によっては道に被さるようになってるみたいだから、歩きにくいだろうに。
足元はスニーカーだから、コケたりはしないかな? そんなことを思いながら、湾曲する道に沿って歩いている和装の人を見守る。今は少し上りになっているようで、さっきまでよりも見えやすくてホッとする。
だけど、ふと気になった。
ここって観光地だって、さっき真久部さんは言った。だから手入れがされていると。それなのに、俺たち以外誰の姿も見えないのは何故だろう? 確かに今日は土日でもなければ祝日でもないけど、平日だって観光客はいるはずだ。実際、宿泊したホテルのロビーにはけっこう人がいたし、タクシーでここに来る途中だって、何台も県外ナンバーの車を見た。麓にはバス停だってある。
薄の原以外にも、近辺に観光名所はあるらしい。連なっている滝だとか、屏風のように切り立った岩、見事な紅葉と水のきれいな渓谷。だけど、今は桜でいうなら満開の、薄が最も美しい季節。そんなときに誰も来ないなんてあるんだろうか。
天気が悪いなら、そういうこともあるだろうけど……。
晴れた空の下、薄の穂波が風にそよぐ。風の姿を露わにする。うねるように揺れ動く薄の原は、風が吹くから揺れるのか、揺れるから風が吹いてくるのか。ああ、そんなこと考えるより真久部さんを見ていなくちゃ。上りから向こう側に下って行かれたら、ここから見えなくなってしまう……あ、よかった、ちょっと立ち止まってる。道を探してる?
「真久部さん、真久部さん、こっち!」
背の高い薄に埋もれるようになってるから、方向がわからなくなったのかな? 俺は焦ってその場でぴょんぴょん飛び上がり、両手を振って真久部さんを呼ぶ。
「こっちですよ、真久部さーん!」
「ありがとう──」
何でも屋さん、と遠くから声が聞こえる。そしてこちらに戻る道を見つけたのか、また歩き始めた。下りは足元が不安なのか、慎重な足取りでいるようだ。その辺りはひときわ丈高く薄が繁茂しているらしく、するっと姿が隠れてしまう。
隠されてしまう。
薄の原に。
風が吹く。ざあざあと薄が揺れる、大きくうねくる。誰もいない薄の原は、明るい陽射しに包まれているというのに、まるで大荒れの海のようだ。逆巻く銀の穂波が砕け散り、また次の波が。そして、幾千幾万もの銀の根の、底の底に全てを引きずり込むみたいに──。
「……!」
いや、誰 も い な い なんて、そんなことあるはず無い。真久部さんがいるんだ。さっき見てたあのあたり、ひときわ大きくうねっている、みっしりと丈高い薄の群れ、その下にいるはず!
「真久部さん、真久部さーん」
俺は叫ぶ。必死に叫ぶ。
「真久部さん! こっちです、真久部さーん!」
返事がない。本当に溺れちゃった? 薄を海にたとえたけれど、まさかそんなはずは。
「真久部さん! 真久部さん! 真久部さーん!」
いきなり何を? あ、写真でも撮るのかな? 薄をバックに和服の真久部さん。映えるかも。でも、そんなことくらい、仕事でなくても喜んでさせてもらうのに。
「見ててほしいんだよ」
「何を?」
「僕はこれから薄の中を歩くので、それを。もし何でも屋さんから見て何か変だと思ったら、声を掛けてほしいんです」
「変、ですか……?」
歩いてて、変? よくわからない。
「姿が見えなくなったりとか──まあ、おかしなことが起こったら、呼んでほしいんだよ、僕を」
「ええと、真久部さんを見張っていればいいんですね? プールの監視員みたいに」
海みたいな薄の原で、揺れる穂波の下に、真久部さんが溺れたり、沈んだりしないように気をつけていればいいってこと? なぁんてね。そんなわけもないだろうけど。
「プールの監視員、ですか?」
いつのも胡散臭い笑みが、ちょっとだけほんわり緩んだ。
「やっぱり何でも屋さんは面白いですね──。ああ、そうだね、そんな感じで見張っていてほしいんだよ」
「はあ……」
頼みましたよとにっこり笑って、真久部さんは高台から続くいくつもの細道のひとつを選び、歩いていった。
ただ踏み固められただけの道が、丈高い薄の間に消えてゆく。羽織の背中が遠ざかる。
「……」
揺れる薄。風にいっせいに靡いているように見えるけど、よく見てみると薄の穂って、出る角度がそれぞれ少しずつ違う。だからか、揺れるタイミングも微妙に違ってくる。
ふわっと揺れる、ふっと斜めに揺れる、するっと揺れてまたふわりとそよぐ。穂の一本一本が指のようで、そうするとやっぱり薄の穂は招く手のようで、その手が何千何万と──。
「真久部さん!」
思わず、俺は声を上げた。その瞬間、揺れ動く穂波の向こうに薄れかけていた着物姿が、レンズを拭ったようにはっきりして、何故だかほっとした……って、あれ? 今のは何だろう? 何かおかしい。何か変だ。視界を埋める薄の原が、真久部さんの全身を絡め取ろうとしてるみたいで──。
また風が吹いて、何事もなく歩く姿が波のように泡立ち騒ぐ薄の間から見える。
「真久部さん!」
「──はい」
もう一度大きい声で呼ぶと、良かった、返事があった。けっこう離れたかな? 真久部さんたら足が速いな。薄は背が高くて、場所によっては道に被さるようになってるみたいだから、歩きにくいだろうに。
足元はスニーカーだから、コケたりはしないかな? そんなことを思いながら、湾曲する道に沿って歩いている和装の人を見守る。今は少し上りになっているようで、さっきまでよりも見えやすくてホッとする。
だけど、ふと気になった。
ここって観光地だって、さっき真久部さんは言った。だから手入れがされていると。それなのに、俺たち以外誰の姿も見えないのは何故だろう? 確かに今日は土日でもなければ祝日でもないけど、平日だって観光客はいるはずだ。実際、宿泊したホテルのロビーにはけっこう人がいたし、タクシーでここに来る途中だって、何台も県外ナンバーの車を見た。麓にはバス停だってある。
薄の原以外にも、近辺に観光名所はあるらしい。連なっている滝だとか、屏風のように切り立った岩、見事な紅葉と水のきれいな渓谷。だけど、今は桜でいうなら満開の、薄が最も美しい季節。そんなときに誰も来ないなんてあるんだろうか。
天気が悪いなら、そういうこともあるだろうけど……。
晴れた空の下、薄の穂波が風にそよぐ。風の姿を露わにする。うねるように揺れ動く薄の原は、風が吹くから揺れるのか、揺れるから風が吹いてくるのか。ああ、そんなこと考えるより真久部さんを見ていなくちゃ。上りから向こう側に下って行かれたら、ここから見えなくなってしまう……あ、よかった、ちょっと立ち止まってる。道を探してる?
「真久部さん、真久部さん、こっち!」
背の高い薄に埋もれるようになってるから、方向がわからなくなったのかな? 俺は焦ってその場でぴょんぴょん飛び上がり、両手を振って真久部さんを呼ぶ。
「こっちですよ、真久部さーん!」
「ありがとう──」
何でも屋さん、と遠くから声が聞こえる。そしてこちらに戻る道を見つけたのか、また歩き始めた。下りは足元が不安なのか、慎重な足取りでいるようだ。その辺りはひときわ丈高く薄が繁茂しているらしく、するっと姿が隠れてしまう。
隠されてしまう。
薄の原に。
風が吹く。ざあざあと薄が揺れる、大きくうねくる。誰もいない薄の原は、明るい陽射しに包まれているというのに、まるで大荒れの海のようだ。逆巻く銀の穂波が砕け散り、また次の波が。そして、幾千幾万もの銀の根の、底の底に全てを引きずり込むみたいに──。
「……!」
いや、
「真久部さん、真久部さーん」
俺は叫ぶ。必死に叫ぶ。
「真久部さん! こっちです、真久部さーん!」
返事がない。本当に溺れちゃった? 薄を海にたとえたけれど、まさかそんなはずは。
「真久部さん! 真久部さん! 真久部さーん!」