第329話 芒の神様 8

文字数 2,410文字

後ろから大人の声が聞こえて、追いかけられるように僕は薄の中を闇雲に突き進んだ。それはあの男の声ではなかったかもしれない、でも、そのときの僕には、自分を捕まえようと引き留める、怖い誰かの声にしか聞こえなかったんです。

初め疎らだった薄は、奥に行けば行くほど密集してきました。視界は全て砂色の薄の茎、僕は泳ぐように進んだ。子供は身体が軽いから、実際泳いでいたのかもしれない。地面に、足がつかなかった気がするんです。

ただもう我武者羅に手を動かし、足を動かして……あっ、と思ったときには、丸い広場のようなところに転がり落ちていた。唐突に現れた空間で、僕はまるで水から飛び出した魚のように口をパクパクさせていた。驚きと、限界まで身体を動かした苦しさで、しばらく動けなかった。

見上げた空は、太陽は見えないのに不思議に明るかった。

白い雲がどこまでも広がっていて、ところどころに淡い金色や薄い茜色が入り混じり、明るいのにちっとも眩しくなかった。見えるかぎりの薄の穂がふんわりふわふわ輝いていて、それが空に上って雲になるのかな、なんてことを考えていました──恐怖とパニックの限界で、意識を逃避させていたんだろうね。

どれくらいそうしていたか、ふと気づくと、着物を着た子供が傍に立っていました。逆光で顔は見えなかったけれど、長い髪をしていて、色白で、手足も細かったので、女の子だと思いました。

 
  どうしたの? 早いね、いつも来るのは冬なのに


初めて会ったはずなのに、知ってるふうにその子が話しかけてきた。頭のどこかでちょっと変だとは思ったけれど、自分がとても怖かったことを訴えるほうが、そのときの僕にとっては大事だったから、怖いおじさんから逃げてきた、と答えました。


  ここには、怖い人は来ないよ


その子はそう言って、僕を立ち上がらせてくれた。並んでみると、背は僕よりずっと高くて、遊び友達のお兄ちゃんと同じくらいの年頃に見えました。一重の涼やかな目元、赤い唇が印象的で、きれいなお姉さんだな、とぼうっとその顔を眺めていました。


  どうしたの、もう怖くないよ


不思議そうに彼女が言うので、僕はうなずいた。ずっと心に圧し掛かっていた恐怖心が、嘘のように消えていきました。


  遊ぶ?


それにもうなずくと、相手の表情が花が咲いたようにパッと明るくなりました。


  うれしいな。遊ぶのうれしいな
  いつも誰も遊んでくれないのに
  今日は遊べる、うれしいな
 

はしゃぐ様子に僕もうれしくなってきて、彼女が教えてくれる遊びに熱中しました。薄の葉を折って結んで、中に小石を入れてお手玉にしたものや、笹船もどきをいくつも作ってくれて、彼女はとても器用だった。特に驚いたのは薄の葉を虫の形に作ったもので、バッタなんかは本物そっくりでした。


   楽しいな 
   楽しいね

 うん、楽しい。楽しいね。

   さびしかった 
   ずっと一人で 寂しかった

 ひとりじゃないよ、もっと遊ぼうよ。

   遊ぼう、遊ぼう
   ずっといっしょに遊ぼう

 うん。いっしょに遊ぼ。

   ほんとうに? 
   ずっと一緒にいてくれる?

 うん、いるよ。もっと何か作って!

   作ってあげる 
   何でもつくってあげるから

 作り方教えてくれる?

   教えてあげるよ 特別だよ
   特別だから


これあげる、と言って渡されたのは、何か半透明の……似ているものでいうと、葛饅頭のようなもので、とても甘い、美味しそうな匂いがしました。


   これあげる
   食べて

 ありがとう!


僕はそれに齧りついて、びっくりした。食べたことがないくらい美味しかった。だけど幼い僕には大きすぎて、一度に半分も口に入れることができませんでした。一所懸命頬張っている僕を、彼女はにこにこして見つめていたんですが、ふと。


 ──!
 ……──
 ──…………!


何かが聞こえた気がしたんです。


 あれ? 誰か呼んでる?
 
   呼んでないよ、
   あれは風の音だよ


 ……──
 ──……──!
 ……! ……ぉ……ぃ
 

 風の音?

   うん、風の音だよ
   それより、ちゃんと全部食べて

 うん、でもちょっと大きいんだ。

   食べてくれたら
   ずっといっしょにいられる
   
 うん。

   いっしょにいたら
   もう寂しくない、寂しくない

 
 ……ぉ……ぃ
 ……──……!
 ──…… …………


 あれ……? やっぱり誰か……。

   風だよ
   あれは風の音だよ
   風の音を聞いてはいけない
   連れて行かれてしまう
   行かないで

 うん、行かないよ。

   行かないで
   これもあげるから


あげる、と言われたのは、薄のかんざしでした。耳のあたりに挿してくれたのが、目の端で垂れた尾花がゆらゆら揺れるのが面白くて、僕は笑った。


   似合うよ、似合う
   だからそばにいて 
   それは
   ずっといっしょにいられるしるし


ずっと一緒にいられるしるし、と聞いて、僕はまだほんの少ししか齧っていない饅頭をいったん薄の葉の上に置き、一番形が綺麗だと思った尾花を取って、同じようなかんざしを作り、これをあげる、と彼女に差し出しました。


 ちょっと屈んで。おそろいにしよ。


僕がそう言ったときのあの子の驚いた顔。今でも忘れられません。


   我は女の子じゃないよ

 え? 僕も女の子じゃないよ、男の子だよ。

   ……女の子じゃない?

 そうだよ。きみこそ、女の子じゃなかったの?

   そなたは
   そんなにかわいいのに
   
 でも、僕男の子だよ!


「女の子みたいに可愛い」はその年でも言われ慣れていて、ふだんは聞き流していたのに、あの子に言われたのが悔しくて、大きな声で否定しました。

そのとたん。

気づいたら、僕は母に抱きしめられていた。後ろに立つ父が泣いているのを見て、変だな、と思ったら、抱きしめながら母はもっと泣いていた。僕は何が何やらわからなくて──次に気がついたら、病院のベッドでした。
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